エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(6):アイアコス一族の神霊

アイギナの最初の王であったアイアコスとその子孫はアイギナの守り神として崇拝されていました。そしてアイアコスの一族はアイギナ以外の都市国家でも崇拝されていました。そのことが分かる話が以下の伝説です。
BC 507年のことです。テーバイがアテナイと戦い、惨敗するということがありました。

その後テバイ人はアテナイに報復せんとして、デルポイに使いをやり神託を伺わせた。ところが巫女の答えは、テバイ人が独力ではアテナイに報復することはできぬから、事柄を衆議にかけたのち、最も近き者の援助を求めよ、とあった。
 さて神託使の一行が帰国し、テバイでは民会を開いて、神託の報告が行われた。使いの者から「最も近き者」の援助を求めよという託宣のあったことをきくと、テバイ人が口々にいうには、
「われわれに最も近い隣国といえば、タナグラにコロネイア、それにテスピアイではないか。しかしこれらの諸国はいずれも、戦いあれば常にわれらの側に立ち、ともに戦い抜いてくれる国ばかりじゃ。今更あらためて、これらの国々に援助を求める必要がどうしてあろうか。託宣の真意は左様なことではあるまい。」
このような論議を交わしているとき、ふと一人のものが真意を悟って、こういった。
「わしには託宣の意味が呑みこめたように思うぞ。言い伝えによれば、テバイとアイギナとは、アソポスの娘であるそうな。二人は姉妹である故に、アイギナに援軍を頼めと、神様はわれらにお告げ下さったものと思うぞ。」
 そして、これに優る意見も他になさそうであったので、テバイでは早速アイギナに使者を送り、貴国はわれわれに「最も近き者」であるから、神託のお告げどおり援助してもらいたいと要請した。アイギナ人はテバイ人の援助要請に対して、英雄アイアコス一族(の神霊)をテバイの救援に送ることを承諾したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、79〜80 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)


この話から、テーバイでもアイアコス一族が崇拝されていたことが分かります。さて、テーバイはアイアコス一族の神霊を受領して、それによってアテナイに勝つことが出来たかといいますと、ヘロドトスは、出来なかった、と記述しています。そしてまたしても敗北したテーバイはアイギナにアイアコス一族の神霊を返却し、代わりに生身の人間による助力を要請したのでした。そこで今度はアイギナは自らアテナイを攻撃したとヘロドトスは記しています。しかし、この時期本当にアイギナがアテナイに対して戦端を開いたかについては疑問な点もあり、私はアイギナはアテナイとの戦争を始めていない、というふうに考えています。


それはともかくとして、アイギナにおけるアイアコス一族への尊崇の念はアフェア神殿の破風(=ペディメント)の彫刻群にも表れています。東の破風の彫刻群はヘラクレスによるトロイア攻略が描かれていますが、そこでヘラクレスとともに戦っているのはアイアコスの子テラモンです。


東側の破風の復元図


南側の破風はいわゆるトロイア戦争を描いていますが、ここで主に活躍するのはテラモンの子アイアスです。


テラモンの子アイアス。南側の破風から


このように両方の破風にはアイアコスの子孫の活躍した神話上の場面が描かれていました。

エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(5):新興海上勢力として

アイギナはサモスとも不和でした。

アイギナ人がサモス人に対してこのような行為に出たのは、かねて怨恨を抱いていたからである。元はといえばサモス人の方が元凶であって、アンピクラテスがサモスに君臨していた頃、彼らはアイギナを攻めてその住民に多大の危害を加え、彼らもまた反撃に会って損害を蒙ったことがあった。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

サモス王アンピクラテスによるアイギナ攻撃はBC 670年頃だとされています。そしてこれはレラントス戦争の一環として実行されたもののようです。レラントス戦争というのは日本語版ウィキペディアによると以下のようなものです。

レラントス戦争(レラントスせんそう、希:Ληλάντιος πόλεμος、英:Lelantine War)は、ギリシアのエウボイア島を舞台として、紀元前710〜650年頃に行われたカルキスとエレトリアの戦争。エウボイア島の肥沃なレラントス平野を巡って勃発したとされ、カルキス側が勝利したが、この大規模な戦争によってエウボイア島は疲弊し、衰退を引き起こすこととなった。カルキスとエレトリアは当時経済的に重要なポリスであったため、この戦争は多くの他ポリスを巻き込み、古代ギリシア中を二分した。歴史家トュキディデスによれば、トロイア戦争ペルシア戦争の間において、レラントス戦争は多数のポリスを参戦させた唯一の大戦であった。


日本語版ウィキペディアの「レラントス戦争」の項より

この戦争でサモスはカルキス側につき、サモスとは目と鼻の先にあるミレトスはエレトリア側につきました。サモスとミレトスは通商圏をめぐって対立していたと想像されています。アイギナとサモスの間にもエジプトとの交易をめぐって対立があり、そのためアイギナはたぶんエレトリア側についたのでしょう。
このレラントス戦争がカルキスとエレトリアの共倒れの形で終結した時、カルキスとエレトリアに代わってエーゲ海東側の都市が台頭することになりました。エーゲ海の西ではアイギナだけが海上勢力として発展し始めました。アテナイはまだこの頃、海上勢力としてはアイギナの後塵を拝していました。BC 670年頃にリュディア王国で貨幣が発明されるとエーゲ海東側ではそれが流通するようになりますが、エーゲ海西側ではアイギナが最初に硬貨を鋳造しています。それはBC 630年頃と推定されています。



左:アイギナのコイン


またアイギナ人は重さと長さの単位を確立し、それはギリシア世界での2つの単位体系のうちの1つになりました。


さて、BC 570年、アマシスがエジプト王に即位すると、彼はギリシア人を優遇し、自国に招きました。

アマシスはギリシア贔屓の人で、そのことは幾人ものギリシア人に彼が好意を示したことによっても明らかであるが、なかんずくエジプトに渡来したギリシア人にはナウクラティスの町に居住することを許し、ここに居住することを望まぬ渡航者には、彼らが神々の祭壇や神域を設けるための土地を与えた。それらの中で最も大きく、最も有名で、かつ参詣者の最も多い神域は、ヘレニオン(「ギリシア神社」)と呼ばれているもので、これは次のギリシア諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の町ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸市、ドーリス系ではロドス、クニドス、ハリカルナッソスおよびパセリス、アイオリス系ではミュティレネが唯一の町であった。
(中略)ただアイギナ人は独立にゼウスの神殿を建立し、またサモス人はヘラの、ミレトス人はアポロンの神殿をそれぞれ建立した。


ヘロドトス著「歴史」巻2、178 から

上のヘロドトスからの引用に登場する多くのギリシアの諸都市の中で、アイギナだけがエーゲ海の西側の都市です。つまり、アイギナは当時、エーゲ海の西側では唯一エジプトと交易していた都市国家だったのです。アイギナの勢力がさらに拡大したのは、BC 520年頃にクレタ島の都市キュドニアを支配下においた時でした。このキュドニアはそれまでサモス人が住んでいました。

自分たち(=サモス人)はクレタ島のキュドニアに住み着いた(中略)。彼らはここに五年間留まり繁栄したが、その勢いの盛んであったことは、今日キュドニアにあるいくつかの神祠、また女神ディクテュナの神殿を建立したのがこのサモス人であったことからも知られる。
 しかし六年目になって、アイギナ人がクレタ島民の協力の下にサモス人を海戦に破って隷属せしめ、サモスの艦船からイノシシの標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。
 アイギナ人がサモス人に対してこのような行為に出たのは、かねて怨恨を抱いていたからである。元はといえばサモス人の方が元凶であって、アンピクラテスがサモスに君臨していた頃、彼らはアイギナを攻めてその住民に多大の危害を加え、彼らもまた反撃に会って損害を蒙ったことがあった。これがアイギナ人の行動を促す動機を成したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻3、59 から

つまり、ここでこのエントリの一番最初の引用に戻ったわけです。このキュドニアについて英語版のWikipediaの「アイギナ」の項ではこう説明しています。

アルカイック時代のアイギナの海軍拡張の間、キュドニアは、新興の海軍勢力であるアイギナが支配する他の地中海の港へ向かう途中の、アイギナ艦隊にとって理想的な海上停留地であった。


英語版のWikipediaの「アイギナ」の項より

2つ上のヘロドトス「歴史」からの引用に「サモスの艦船からイノシシの標識のついた船首を切りとり、アイギナにあるアテナの神殿にこれを奉納した。」とありますが、この「アテナの神殿」というのは、アフェア神殿のことを指していると推定されています。



左:アフェア神殿

エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(4):アテナイとの不和の起源

これは、アイギナとアテナイがどうして敵対関係になったかという話です。この話は、アイギナがエピダウロスから独立する前の頃から始まります。

エピダウロス穀物の不作に悩んでいたことがあった。そこでエピダウロス人は、この天災についてデルポイの神託を伺ったのである。巫女はダミア、アウクセシア二女神の神像を奉安せよと告げ、そうすれば事態は好転しようといった。そこでエピダウロス人が、神像は青銅製にすべきか、それとも石材を用いるべきかと訊ねたところ、巫女はそのどちらも宜しからず、栽培したオリーヴの材を用いよと告げた。そこでエピダウロス人は、アテナイのオリーヴ樹が最も神聖なものと考えていたので、アテナイに対しオリーヴの樹を一本伐採させて欲しいと頼んだのである。一説によれば、当時はまだアテナイ以外には世界中どこにもオリーヴの樹はなかったともいう。アテナイ側では、エピダウロスがアテナ・ポリアスとエレクテウスに毎年犠牲を供えるという条件で許可しようと答えた。エピダウロス人はこの条件を受諾して望みのものを手に入れ、このオリーヴの材で神像を造り、これを奉安したのである。かくてエピダウロスでは五穀が実り、エピダウロス人はアテナイに対して協定したとおり実行したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻5、82 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)



上記の引用に登場する「巫女」とは「デルポイの巫女」のことで、デルポイにあるアポロン神の神託所で神託を人間に伝える役割を持つ巫女です。したがってこの巫女の語ることはアポロン神が語ることとみなされていました。また、「ダミア」と「アウクセシア」はあまり有名ではない女神ですが、ともに豊穣の女神だということです。一説にはこの女神たちはかつては人間の女性で、クレタ島の出身で友達同士だったといいます。それがどういうわけなのか、トロイゼンという町に来た時に町の騒乱に巻き込まれて殺されてしまったというのです。その2人を女神として祭ったというのですが、話が断片的でよく理解できません。


 さてアイギナは、それ以前から当時に至るまでエピダウロスに従属しており、アイギナ人は自分たちの間の訴訟事件も、エピダウロスへ出かけて行って処理してもらっていたのである。しかしこの頃から多数の船を建造し、浅慮な自負心に駆られ、エピダウロスから離反してしまった。アイギナはエピダウロスとの間が不和になると、制海権を利してエピダウロスの領土を荒らしたが、遂には右に述べたダミアとアウクセシアの神像をエピダウロスから奪うことまで敢えてした。奪った神像をもち帰り、自国領の中央部、町から二十スタディオンほどはなれたところにあるオイエという場所に据えて祀った。
 神像が盗まれてからは、エピダウロスアテナイとの協定を履行しなくなった。アテナイは使者を送って憤怒の意を伝えさせたが、エピダウロス人は自分たちの行動には過ちはない所以を説明した。すなわち、自分たちは神像が自国内にあった間は、約束を果していたのである、神像が奪われた後もなお犠牲を送らねばならぬというのは筋が通らない、むしろ現在神像を保有しているアイギナに、その義務を果たさせるがよいといったのである。
そこでアテナイはアイギナに使者を送り、神像の返還をせまったところ、アイギナはアテナイと関わり合いになる筋は何もない、と突っぱねてしまった。


ヘロドトス著「歴史」巻5、83、84 から



このあとの話はアテナイ側とアイギナ側で主張が異なっていて錯綜しているので、アイギナ側の主張に基づいて、かいつまんでご紹介します。


アテナイは船を連ねて神像奪還のためにアイギナに寄せてきました。アイギナ側は事前にアルゴスに助力を頼んであり、アルゴスの兵はこのときまでにアイギナ島に到着しておりました。そこで、アイギナとアルゴスの兵は物陰に隠れてアテナイ人たちの行動を監視しておりました。アテナイ人たちは、誰一人抵抗してこないので、船を下りて神像の安置してある場所へ向いました。神像に綱をかけて引いたところ、不思議なことが起きたといいます。神像が、引いていくアテナイ人の前に膝をついたのだそうです。それからこの2つの神像は膝をついた姿勢のままになったのだといいます。ここで、アイギナ勢とアルゴス勢はアテナイ人たちに不意に攻撃をかけました。また、この時に、雷鳴と地震が起ったのだともいいます。アテナイ側は一人を残して全滅してしまい、その一人だけが何とか逃れてアテナイに帰国しました。
このことがあってからアイギナとアテナイは互いに不和になったのだということです。

エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(3):アイギナ植民


神話によればアイアコスはアイギナの初代の王でした。そしてアイギナの国民(というか都市国家なので市民とも呼ぶことも出来ます)はといいますと、ゼウスがアイアコスのために島にいる蟻を人間に変身させて国民にしたのでした。ギリシア語で蟻のことをミュルメクスと呼ぶので、彼らはミュルミドン族と呼ばれました。さてその後の物語は、アイアコスの息子たち、つまりテラモンとペレウスがもう一人の息子ポーコスを殺すというふうに進みます。そのことを知ったアイアコスは怒ってテラモンとペレウスをアイギナ島から追放してしまいます。テラモンは隣の島であるサラミス島に移り、ペレウスはもっと遠くのプティアというところへ移ります。テラモンのその後やペレウスのその後についても物語が伝わっており、特にペレウスは女神テティスと結婚して英雄アキレウスを息子に持ち、そのアキレウストロイア戦争ギリシア軍の第一の勇士として活躍することになります。一方、テラモンの息子のアイアスもトロイア戦争アキレウスに次ぐ勇士として活躍します。(トロイア戦争ギリシア方にはもう一人アイアスが登場しますので、その人物と区別して大アイアスと呼びます。) このアイアコスの子孫たちはアイアキダイと呼ばれています。
ところが、息子たちがいなくなってしまってからアイギナがどうなったかについては話が伝わっていません。アイアコスが死んだときに誰がアイギナの王位を継いだのかも分かりません。アイギナの物語を書こうとする私にとっては困った話です。そこで別の伝承を調べてみました。


ヘロドトスによればアイギナはエピダウロスからの植民で、その住民はドーリス系であるといいます。ではエピダウロスはといいますと元々イオニア人の町だったのですが、アルゴスから来たドーリス人たちによって占拠されたのでした。このあたりの話を紹介します。

ヘラクレスの後裔がドーリス人を率いてペロポネソス半島に侵入した時(彼らの言い分では帰還した時)、大将の一人テメノスはくじでアルゴスを引き当て、アルゴスを支配することになりました。彼は同じヘラクレスの子孫であるデイポンテスを実の息子たちよりも目をかけて自分の娘ヒュルネトと結婚させたので、息子たちはアルゴスの王位がデイポンテスに継承されるのではないかと恐れて、父親のテメノスを殺してしまいました。しかし、アルゴス市民もデイポンテスの王位継承を支持したので、テメノスの息子たちの王位奪取は失敗しました。彼らは国外に亡命すると国外の勢力の助けを借りてアルゴスを攻め、デイポンテスをアルゴスから追い出しました。代わって亡命者となったデイポンテスは東隣のエピダウロスに遁れました。当時のエピダウロス王ピテュレウスは、理由はよく分からないのですが、その後王位をデイポンテスに譲り、自分は人民とともにアテナイに移住しました。こうしてエピダウロスはドーリス人の町になったのでした。それまでこの町はイオニア人の町だったのでした。この時ピテュレウスの息子プロクレスは一部の住民を率いてエーゲ海の東側にあるサモス島に植民しました。
その後エピダウロスはアイギナ島を領有するようになりました。私が推測するにそれ以前はアイギナ島にはイオニア人が住んでいたのを追い出したのではないかと思います。やがてアイギナ島では船を多数建造するようになり、アイギナ島は貿易で栄えるようになりました。するとそこの住民はエピダウロスの政府に従うことを嫌い、独自に行動するようになり、やがてエピダウロスから独立したのでした。アイギナは海運貿易で財を成した貴族階級が政権を運営するようになりました。

エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(2):アイギナの名の由来

アイギナという島の名前は、神話によればアイギナという名前の女性に由来します。「エーゲ海のある都市の物語:テラ(3):エウロペを探すカドモス」で紹介したエウロペという女性がヨーロッパという地名の由来になったのに似ています。そしてエウロペの話と同じように神々の王ゼウスによってさらわれ、ゼウスの子を産んだのでした。エウロペの話では娘の失踪を知った父親は、息子たちに娘の行方を探させたのでしたが、アイギナの話では父親自身が娘の行方を捜したのでした。では、アイギナの話を始めます。



ペロポネソス半島の真ん中あたりから北へ流れるアソポスという名前の川があります。アイギナの父親はこの川の神アソポスの娘でした。アイギナが美しく育った時にゼウスはいつものようにこの娘に目を止め、さっそく誘拐したのでした。父親は娘を探し求めてギリシアじゅうをさまよいました。アソポスがコリントスにやってきた時、当時のコリントスの王でおせっかいのシシュポスが、ゼウスが娘をさらってあっちに逃げて行ったよ、とアソポスに教えたのでした。シシュポスはコリントスアクロポリスに泉が欲しいと思っていたので、川神のアソポスに親切にし、その代わりに泉を作ってもらったのでした。これがペイレネの泉です。



一説にはこのことが後にゼウスの怒りを買い、シシュポスはあの有名な罰を受けたということです。つまり、彼はタルタロス(地下の世界)で罰として巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられたのですが、彼が岩を押し上げてあと少しで山頂に届くというところで、岩は必ず転がり落ちて底まで行ってしまうのでした。そうするとシシュポスは再びこの労役を最初から始めなければなりません。このようにして、この罰は永遠に繰り返されることになるのでした。


これはのちの話ですが、話を戻してアソポスはといいますと、ゼウスを追ってやがて追いつきました。するとゼウスは無礼者と一喝して得意の武器である稲妻をアソポスに投げつけたのです。アソポスは雷を浴びて身体の一部が炭化してしまいました。それでアソポス川の河床には石炭があるのだといいます。アソポスは娘を諦めざるを得ませんでした。
一方ゼウスはアイギナをアイギナ島に連れて行きました。それまでこの島はアイギナではなくオイノネという名前でしたが、アイギナにちなんでアイギナという名前に変わったのでした。アイギナはこの島でゼウスの息子アイアコスを生みました。


そこでアイアコスについて調べてみますと、高津春繁著「ギリシアローマ神話辞典」に以下のように書かれていました。

アイアコス

  • ゼウスとアーソーポス河神の娘アイギーナとの子、ギリシアの英雄中もっとも敬虔な人。テラモーン(アイアースの父)とペーレウス(アキレウスの父)の二子をスキーローンの娘エンデーイスとのあいだに、海のニンフ、プサマテーとのあいだにポーコスを得た。ポーコスが運動競技に秀でているのをねたんで、テラモーンとペーレウスは彼を殺したために、アイギーナ島から追われた。この島はもとはオイノーネーなる名であったが、アイアコスの母の名を取ってアイギーナとなったもので、この島の住民が疫病で全滅した時(あるいは元来無人だったので)、ゼウスは彼の敬虔の償いとして蟻を人間に変えて、住民としたために、彼らはミュルミドーン人と呼ばれた。彼は旱魃に際してギリシア人を代表してゼウスに祈り、またアポローンとポセイドーンを援けてトロイアの城壁を築き、死後は冥府で亡者を裁いている。


高津春繁著 ギリシアローマ神話辞典 より



私にはこのアイアコスというのが印象が薄い感じがするのですが、アイアコスは後世、ギリシア人の間で崇拝の対象となっています。「死後は冥府で亡者を裁いている」という、日本で言えば閻魔様のような役割を考えると、私はアイアコスはもともと神ではなかったか、という気もします。

エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(1)

今度はエーゲ海の西側にある島アイギナを取り上げます。この近くにある有名なアテナイをなぜ取り上げないかと言いますと、アテナイの歴史ならばネットに多く存在するからです。私としてはそういう都市は避けて、あまり取り上げられることのない都市についてご紹介していきたいと思っています。


まず、アイギナの位置を示します。アイギナはアテナイの近くにある島です。その島の西側に古代のアイギナの町がありました。この町は今も存続しており、町の中心は古代の中心とは少しズレています。今は町はエギナと呼ばれています。ここで古代の名前のアイギナで通すことにします。




現代のエギナの町はこんな感じだそうです。





古代アイギナの町の遺跡としてはアポロ神殿がありますが、あまり残っていません。



島の反対側にはアフェア神殿があり、こちらはいい保存状態です。


アフェア神殿については昔「ラビュリントイオ・ポトニア(迷宮の女主人)」に書いたことがあります。この神殿に祭られた女神アパイアについての考察です。

エーゲ海のある都市の物語:テラ(9):最終回:アトランティス?


この頃のテラについて、ギリシア側の伝承は何かないのでしょうか? まず思いつくのはヘロドトスが記している以下の記事です。

現在テラと呼ばれている島は、以前はカリステと呼ばれていたがこれは同じ島で、当時はフェニキア人ポイキレスの子メンブリアロスの子孫が居住していた。すなわちアゲノルの子カドモスはエウロペの所在を探し求めながら、現在のテラに上陸したが、上陸後この地が気に入ったのか、あるいは他の理由があってそうしたのか、この島にフェニキア人を残していった。その中には自分の同族の一人メンブリアロスもいたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻4、147 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

この記事から考えると、ギリシア人の到来以前にテラに住んでいたのはフェニキア人のようです。これを支持する記述をトゥキュディデスもしています。ギリシア人がエーゲ海に進出する以前は、エーゲ海の島々にいたのはカリア人かフェニキア人(下記の文中では「ポイニキア人」)だったと、その記事は言います。

当時島嶼にいた住民は殆どカーリア人ないしはポイニキア人であり、かれらもまたさかんに海賊行為を働いていた。これを示す証拠がある。今次大戦(注:これはペロポネソス戦争のこと)中にデーロス島がアテーナイ人の手で清められ、島で死んだ人間の墓地がことごとく取除けられたとき判明したところでは、その半数以上がカーリア人の墓であった。これは遺体と共に埋められていた武器や、今日なおカーリア人がおこなっている埋葬形式から判った。


トゥキュディデス著「戦史」巻1、8 から

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)

特にデロス島ではカリア人が住んでいたと上の記事は述べています。テラではカリア人が住んでいたのでしょうか、それともフェニキア人が住んでいたのでしょうか? それとも両者とは異なる別の民族が住んでいたのでしょうか?


これとは別に、先史時代のテラの大爆発の事実が1960年代に明らかになると、これをアトランティス大陸の伝説に結び付ける人々が現れました。当初はこの爆発によってクレタ島のミノア文明が滅亡したと考えられていました。そしてそのことがアトランティス大陸の伝説になったと考えられました。しかし、その後の放射性炭素年代測定によってテラの大爆発がミノア文明の最盛期より以前に位置付けられたことにより、この学説は支持を失っていきました。それでもテラの文明がアトランティスの伝説に影響を与えたのではないか、と考える人々がいます。私は、前回の「テラ(8):アクロティリ」でご紹介した「給水システムは2系統になっており、おそらく温水と冷水に分かれていた」というところにアトランティスとの関係を想像してみたくなります。



そもそもアトランティスの話は、哲学者のプラトンが初めて書き表したのでした。プラトンの著作「クリティアス」には温水と冷水の供給システムを記したと思われる記述が出てきます。最初の記述はアトランティスの首都を太古に海神ポセイドンが創造した様子を記述したものです。

ポセイドンご自身が、例によって神のなさるやり方で、容易に中央の島を整えられた。地下から、いっぽうは温水を出し、他方は冷水を出す二つの泉をおつくりになったり、大地からは、ありとあらゆる種類の食物をふんだんに生み出されたのである。


プラトン「クリティアス」より

もうひとつは、アトランティスの住民がその2つの泉をどのように利用したか、についての記述です。

彼らが利用した泉は、冷水を出す種類と温水を出す種類とがあったが、水量は豊富で、どちらもすばらしく利用に適していた。その水は味にくせがなく、しかもきわめて良質だったからである。これらの泉の周囲に、かれらは建物をたて、その水になじむような木を植えた。その上、まわりに貯水場を設けて、あるものは露天のもとに、またあるものは冬期の温水浴用に屋内に設備を整えて利用した。かれらは、浴場を、王のためのもの、市民の私的な利用のためのもの、さらに他にも婦人用、馬やその他、荷物運搬の家畜用などに分け、それぞれに適した方法で装備を設けていた。外に流れ出た水を、かれらはポセイドンの聖なる森に導いた。そこでは、その土壌の肥沃さのおかげで、見事な美しさと高さに育つあらゆる種類の木がみられたのである。


プラトン「クリティアス」より



あるいは、これらの記述の幾分なりかはかつてのテラのアクロティリ遺跡の往事の光景に由来しているのかもしれません。私のテラに関する物語は、アトランティスとのかすかな関連が見えてきたこのところで終えることにします。(ここをつきつめていくと随分あやしげな話も取り上げることになりそうですので、ここで退散するのがよさそうです。) ありがとうございました。