聖書を語る――中村うさぎ 佐藤優

私は「古い夢の話」のコメントで中山さんに対して「村上春樹の『1Q84』は読んでいないので、そこに二つの月が登場するとは知りませんでした。」と書いていたのですが、今、この本を読み直してみたら『1Q84』の二つの月のことが出ていました。「古い夢の話」を書く以前に私はこの本(「聖書を語る」)を読んでいたのにそのことが頭に残っていなかったのでした。

中村 『1Q84』では月が二つ見える人と見えない人がいるよね。あれ、どう思います?
佐藤 僕はあれがこの作品の一つの鍵になるメタファーだと思うんです。その発想は、すごく仏教的なんですよ。月が二つ見えるのは天吾であり、青豆であり、おそらくはヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聴いているタクシーの運転手、それからカルトの教祖にも二つ見える。で、天吾と青豆が繋がるというのは、人間と人間としての相互理解は出来なくても、同じ月を見ていることによって繋がっているわけです。人々の連帯感というのは、月を必ず媒介して成立する。こういう構成ではないかなと見ているんです。


「聖書を語る  第二章 「春樹とサリンジャー」を読む」より


今ふと思ったのですが、私の潜在意識にはこの文が残っていて、それで中山さんの書かれたエントリ「大理石の海」を読んだ時に自分の幼年期に繰り返し見たたくさん月が出てくる夢のことを書こうと思いついたのではないかと。もっとも、こういう精神分析的な解釈法はどこまで科学的なのか(あるいは単なるこじつけなのか)よく分かりませんが。確かに私はこの文章を読んだ時に『ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」』のところで中山さんのエントリ「生まれて初めての『シンフォニエッタ』をiPhoneで聴いた」を思い出していたことを今、思い出しました。あまり普段から小説を読まず、村上春樹の作品もあまり読んでおらず、サリンジャーを読んだことのない私は、あまりここに深入りして書くとすぐ化けの皮がはがれそうなので、この辺で止めておきますが・・・・・。



私はこのようなことを書こうと思ってこのエントリを始めたわけではなく、この本で中村うさぎが何回もエヴァンゲリオンを持ち出してくるのがおもしろくて、その話を書こうと思っていたのでした。でも、月の夢の話は気になっています。ユング的に言えば、私の中で元型が動き出しているのか・・・・・。


それはともかく中村うさぎが持ち出してきたエヴァンゲリオンの話。

中村 私はね、BOOK3の*1オチに完全にアタマに来たんです。(中略) つまり、家族を捨て擬似家族にも敵対して、このあと、個として生きられない人間はどういう繋がりを見つけていくのか・・・・・・そういう文脈で読んでいるわけよ、BOOK1と2までは。
 ところが3で二人は子を孕んで、それこそバリバリの血縁家族へ――(中略)・・・・ン? 三人で幸せになろう? ふざけんなって(笑)。家族というシステムとの戦いはどうなったんだよ!
(中略)
間違っていても下手糞でもいいから、答えを出そうという悪あがきが描かれてればいいんだけどさ。その点、エヴァンゲリオンは・・・・、佐藤さんはエヴァを見ました?
佐藤 見てないです。いまDVDかなんかでありますよね。
中村 ええ。95年から96年にかけて放送されたTVアニメでの結末に、庵野秀明監督自身が納得できなくて劇場用映画を作るんだけど、その劇場版に私、すごく感心したんですよ。



「聖書を語る  第二章 「春樹とサリンジャー」を読む」より


このあと、中村うさぎエヴァンゲリオンをこう要約します。

中村 (前略)人間を完全な単体生物に進化させようと人類補完計画が生れるんです。この計画は、すべての個を一つの全体に融合させてしまうという、まあ仏教でいうニルヴァーナ(涅槃)みたいな感じなの。ところが、14歳の主人公・碇(いかり)シンジは、この(中略)計画に「ノー」と言う。それで計画は挫折し、一度全体になりかけた人類は、またリセットされて個になってしまう。で、完結編の最後の場面で、シンジはアスカという女の子とともに目覚めるの、アダムとイヴみたいに。でも、アスカは目を覚ますなりシンジを見て「気持ち悪い」って言うんです。
佐藤 それ、どうして?
中村 シンジもアスカも、全体となることを拒否した以上、もう個であり続けなければいけない。そのとき科せられるのは、他者からの拒絶なんですね。そこからまた始めなきゃいかんというオチで終わるわけです。



「聖書を語る  第二章 「春樹とサリンジャー」を読む」より

この解釈になるほど、と感心しました。私はエヴァンゲリンの映画版(「序」だったと思う)をTVで見たとき、メカがダイナミックに書かれているなあ、という印象と、自分と機械が融合する感じが、自分がサイバネティックスという言葉に感じるものにフィットしているなあ、という印象を持っただけだったので、人によっていろいろな感じ方があるなあ、という感想を持ちました。で、それと私の受けた印象とはまったく別々の解釈かというとそうではなく、どこかで繋がっている感じがするのです。それをどこかで掘り下げてみたいな、と思います。ここでそれをすると、どんどんこの本の話からズレていってしまうので、ここではしませんが・・・・・。


それでこの本はもちろんエヴァンゲリオンの話ばかりをしていたわけではなく、エヴァンゲリオンの話はごく一部なのですが、ここではもう少しエヴァンゲリオンにこだわりたいです。先ほど引用した個所と趣旨は同じなのですが、中村うさぎはこうも言っています。

中村 私、この「原罪」とは、「他者の獲得」だと思っている。他者を獲得した途端、人は「個」になるわけですよ。(中略)だから、「大いなる全体」の世界である「エデンの園」にはいられなくなった。(中略)
 エデンの園から追い出された人間は、以後、「個」として生きる苦しみを負う。「自己」と「他者」は決して融合せず常に隔てられて対峙する存在となり、ひとりひとりが孤独なモナドとなって、互いに繋がることができない。エヴァ的に言えば「A・T・フィールド」に隔てられてる状態、サリンジャー的に言えば「悟り」に到達してない二元論の世界ね。
 その「個であること」こそが、「原罪」であり、「人の生きる苦しみ」の根源なのよ。だから、エヴァの「人類補完計画」は「人類を原罪以前の状態に戻すこと」・・・・つまり「大いなる全体」である「エデンの園」に戻すことだった。(中略)
 ただ、エヴァの場合はもうひとひねりして、最後の最後に主人公のシンジに「大いなる全体」を拒否させる。自らの意志で、再び「エデンの園」から飛び出して、孤独に苦しみながら生きていく道を選択するんだね。



「聖書を語る  第二章 「春樹とサリンジャー」を読む」より

中村うさぎは、「個」と「全体」というところにすごくこだわっているようです。これはこれで私にはおもしろいですが、もうひとつ、次の話もおもしろかったです。

中村 (前略)けっこう多くの若い世代にも、今回の震災はデジャヴュ感があったと思うんだよね。(中略)
この世の終わり、終末というものは、これまでに何度もアニメとかでシミュレーションされてるわけですよ。もう「エヴァンゲリオン」にしろ何にしろ、ストーリーの前提として、一度は日本が崩壊するお話なわけ。(中略)
佐藤 逆に「エヴァンゲリオン」などでの原体験があるから、この程度で済んだともいえますね。だからパニックにならなかった。すでに出来ているところの物語の道筋に沿って現実の世界が進んでいくから。



「聖書を語る  第三章-Ⅰ 「地震原発」を読む――チェルノブイリ、そして福島」より

う〜ん、そうなんだろうか? もしそうだとしたらちょっと驚きです。


ほとんどこの本の紹介にはならないエントリになってしまいました。これらのどこが「聖書を語る」になっていくのか、これでは分かりませんね。でも、これらの話「も」つながっていくんです。

*1:1Q84』の