エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(9):進め、ヘラスの子らよ

やがて2度目のペルシアの侵攻が始まりました。それは前回よりも大規模で、ペルシア王自らが軍を率いていました。テミストクレスは、対アイギナ戦のためにという名目で建造した200隻にのぼる軍船で、ペルシア軍に当ろうと考えます。

これより以前にも一度、テミストクレスが時宜にかなった説を唱えて、大勢を制したことがあった。それはラウレオンの鉱山からの収益である多額の金がアテナイの国庫を潤したので、市民一人当り十ドラクマずつ配当しようとした時のことである。この時テミストクレスアテナイ人を説いてこの分配を中止させ、この金で戦争に備えて二百隻の船を建造させることに成功した。テミストクレスの意味した戦争というのは、対アイギナ戦のことだったのである。実際この戦争があったればこそアテナイは否応なく海軍国となったのであり、それによって今やギリシアが救われることになったのであった。もっともこれらの艦船は予定した目的には使用されなかったけれども、右に述べたような次第でギリシアにとっては正に絶好の機会に役立ったのである。


ヘロドトス著「歴史」巻7、144 から

上の引用で「もっともこれらの艦船は予定した目的には使用されなかったけれども」とあるのは、アイギナに対しては使用されなかったがペルシアに対しては使用されたという意味です。とはいうもののテミストクレスは元々ペルシアの再度のギリシア侵攻を予期していて最初からそのために軍船を作らせたともいいます。ペルシアの再度の侵攻の可能性を低く見ているアテナイ民衆に対して「対ペルシアのために」では説得が出来なかったので、最近のアイギナ戦での敗戦を引き合いに出して「対アイギナのために」という名目で民衆を説得したというのです。


さてペルシア軍はギリシアを北方から攻め、徐々に占領していきました。この状況を放置すべきではないと考えるギリシア人は多くの国の中にいました。

さてギリシア人の内、祖国の前途を憂い愛国の念に燃える者たちは一か所に会同し、互いに意見を交し盟約を誓い合ったが、協議の結果彼らにとって何を措いても果たすべき緊急事は、彼ら相互間の敵対関係や戦争を終結させ和解すべきであることに衆議が一決した。数ある相互間の紛争の中でも、特に重大であったのはアテナイ、アイギナ間の軋轢である。


ヘロドトス著「歴史」巻7、145 から

こうしてアイギナとアテナイの抗争は一旦停止され、両国は共同してペルシアに当たることになりました。しかし、この会議についてヘロドトスは個人の名前を挙げていないため、誰が重要人物で、どのような対立があり、どのように意見を集約していったのか、よく分かりません。たとえば、あとで登場するアイギナ人クリオスの子ポリュクリトスはアイギナの重要人物と推定されるので、この会議に参加した可能性もあると思うのですが、彼についての記述がなく残念です。また、なぜアイギナが今までの親ペルシア政策を放棄したのか、その理由もよく分かりません。この時になってギリシア民族意識が高まったのでしょうか? それも一つの可能性として考えられます。民族意識というのは時に、想像を超えて高揚するという事実が、歴史の中でしばしば見受けられるからです。しかし、私にはこの時のアイギナの政策転換がそうであったとは断言出来ません。



さて、ペルシア勢とギリシア勢との最初の決戦は、陸上ではテルモピュライ、海上ではアルテミシオンという、近接した場所で行われました。テルモピュライの戦いというのは、映画「300」で有名な、スパルタ軍が少人数でペルシアの大軍に善戦し、全員戦死した戦いです。これについてはアイギナとは関係が薄いのでこれ以上は述べません。ここでは、アルテミシオンの海戦の起こる前の話を紹介します。ギリシア側はペルシア海軍がどこにいるかを探るために、トロイゼン、アイギナ、アテナイの船をそれぞれ一隻ずつ派遣して、探索に当らせていました。

クセルクセスの水軍はテルメの町を発進すると、まず最も快速を誇る十席の船をもってスキアトスに直行した。ここにはギリシア船三隻――トロイゼン、アイギナおよびアテナイの船それぞれ一隻――が前線で警戒に当たっていたのであるが、ペルシアの艦艇の姿を認めると遁走をはかった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、179 から




このうち、トロイゼンの船はたちまち捕獲され、乗員は殺されてしまいました。アテナイの船はからくも逃げ切ることが出来ました。アイギナの船はといいますと、ペルシア海軍に向って奮戦したのでした。

アソニスなるものが指揮していたアイギナの三段橈船には、ペルシア方も少なからず手を焼いた。この船に乗り組んでいたイスケノオスの子ピュテアスの働きによるもので、この男は当日の戦闘に最も目覚ましい武功をたてたのであった。船が捕獲されても彼は戦い続け、全身ズタズタに切り裂かれるまで戦いを止めなかった。倒れてもなお死に切らず息のあった彼を、その勇武に感じ入った乗組のペルシア兵たちは、何とかしてその生命を救いたいと、傷に没薬を施し上質の亜麻の繃帯を巻いて手当をしてやった。ペルシア軍は自軍の陣営に戻ると、全軍の兵士に彼の姿を示して賞めちぎり、厚く遇したが、同じ船で捕えた他の兵士たちは、これを奴隷として取り扱ったのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻7、181 から

この記述から、政策転換後のアイギナの戦意が高かったことが分かります。



その後、アルテミシオン近辺で海戦が何回か繰り返されましたが、勝敗は決しませんでした。しかし同時に行われていたテルモピュライの合戦で、スパルタ軍が玉砕したことがギリシア艦隊へ伝えられると、ギリシア艦隊は撤退しました。テルモピュライが突破されては、海上でいかに頑張ろうとペルシア陸軍は陸伝いにアテナイまで進んでしまうからです。スパルタを中心とするペロポネソス諸国はコリントス地峡に防壁を築いて戦うことにしました。これはアテナイやアイギナを見捨てて、ペロポネソス半島だけを防衛する策でした。これはアテナイやアイギナの容認出来ることではありません。アテナイの艦船は、他のギリシア海軍にはサラミス島に集結するように要請したうえでアテナイに帰国し、住民をアテナイから別のところへ避難するよう布告を発しました。大多数の者はトロイゼンに避難しましたが、アイギナ島やサラミス島に向った者もいました。


サラミス終結したギリシア艦隊の中には、やはりコリントス地峡に撤退しようと言い出す者もいましたが、全体の指揮官であったスパルタ人エウリュビアデスはテミストクレスに説得され、最終的にはここで戦うことに決定しました。

サラミスギリシア人の間にはこのような言葉の小競合いがあったが、エウリュビアデスが右の方針を決定すると、その場で海戦の準備にかかった。夜が明け陽が昇ると同時に、陸上にも海中にも地震が起った。ギリシア軍は神々に祈願し、アイアコス一族(の霊)の救援を請うことに決した。そして決定すると同時にこれを実行したのである。よろずの神々に祈願した後、サラミスからはアイアスおよびテラモン(の神霊)の加護を請い、アイギナへはアイアコスおよび他のアイアコス一族を勧請のため船を送った。


ヘロドトス著「歴史」巻8、64 から

ここで「アイアコス一族」の助力を祈っています。「アイアコス一族」はこれほどまでに頼りにされていたのでした。特に戦いの舞台となるサラミス島を領有したのがアイアコスの子テラモンと、その子アイアスでした。


しかしここで指揮官たちの意見の対立が再燃しました。それでも、自分たちが夜中のうちにすでにペルシア艦隊によって包囲されているという知らせをアテナイ人アリステイデスから受けると、この対立は解消しました。もはやここで戦うしか道が残されていなかったのです。

かくてギリシア軍が乗船にかかったころ、アイアコス一族の神霊を迎えに行っていた三段橈船が、アイギナから帰ってきた。ここにおいてギリシア軍は全艦船をもって外海に乗り出したが、それと同時にペルシア軍はただちに彼らに迫ってきた。
(中略)
アイギナ人の説では、アイアコス一族の神霊を迎えにアイギナに使いした船が戦端を開いたのだという。また次のようなことも伝わっている。ひとりの女の姿がギリシア軍の眼前に現われ、まず
「腑甲斐ないものどもじゃ、そなたらはいつまで逆櫓を漕ぐつもりじゃ。」
と罵った後、ギリシア全軍に聞えるほどの大声で鼓舞激励したという。


ヘロドトス著「歴史」巻8、83・84 から

ここでこの「ひとりの女の姿」というのは何か神的な存在なのでしょう。その存在が何という言葉で「ギリシア全軍に聞えるほどの大声で鼓舞激励した」のか残念ながらヘロドトスは記していません。私は、アイスキュロスギリシア悲劇「ペルシアの人々」の中に出てくる次の言葉だったら状況にピッタリだなと想像しています。

進め、ヘラスの子らよ!
祖国に自由を!