東大准教授に教わる「人工知能って、そんなことまでできるんですか?」

記述があまり体系的でないので、私には読みづらかったです。でも、いろいろ重要なことが議論されているような気もします。そのあたりを、明確につかめないもどかしさが、私にはあります。
この本の中で一番印象に残った個所

  • SF的な話ですと、人工知能がどんどん学習していって、「弱い人間という生き物はもういらないよね?」という話になるのかもしれませんが・・・・・・。
  • 人工知能が「人間はいらないよね?」と考えるところですが、かなりとんだ話としては、実は人工知能学会でその方向の話題が出ていまして、「あなたは地球派? それとも宇宙派?」と聞かれましたよ。
  • 地球派か宇宙派か? ガンダムの話でしょうか?*1
  • 真っ昼間からそれを真剣に議論するところがすごい学会ですが、地球派はやはり人間が大事、人間が人工知能を使っていこうという立場。宇宙派のほうは、そもそも人間は人工知能を作るためにあったのだとする説をとる立場です。


なんだその「そもそも人間は人工知能を作るためにあったのだ」という倒錯した考えは!!

  • なるほど! 重力に魂を縛られた人びとは、人工知能を作るために存在したのだ、と。
  • そう。ですからそれができてしまえば、人間はある種の役目を終える。絶滅する必要はないですが、人工知能の存在を支えていけばいい。


これを読んで私が思い出したのが、ニーチェツァラトゥストラです。人間のあとを継ぐべき超人が、生物ではなく機械だったなんて、ニーチェは想定していなかったんじゃないか、と・・・・・。それでもニーチェは超人を説くのか、と・・・・・。

それでツァラトゥストラは群集にむかってこう語った。
「わたしはあなたがたに超人を教える。人間とは乗り超えられるべきあるものである。あなたがたは、人間を乗り超えるために、何をしたか。
 およそ生あるものはこれまで、おのれを乗り超えて、より高い何ものかを創ってきた。ところがあなたがたは、この大きい潮(うしお)の引き潮になろうとするのか。人間を乗り超えるより、むしろ獣類に帰ろうとするのか。
 人間にとって猿とは何か。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱である。超人にとって、人間とはまさにこういうものであらねばならぬ。哄笑の種、または苦痛にみちた恥辱でなければならぬ。


ツァラトゥストラニーチェ著、手塚富雄訳 より

ツァラトゥストラ (中公文庫)

ツァラトゥストラ (中公文庫)


近い将来、ある臨界点を超えた人工知能は、人間のおよびもつかない速さでネット上のあらゆるビッグデータを分析し、仮説をたて、どんな人間よりも迅速に未来を予測し、自己の目的の達成のために(その目的が何なのか、まったく予想がつかないが)効果的な手段をとって前進するのではないでしょうか? そのような人工知能にとって「人間とはまさにこういうもので」あるように見えるのではないのでしょうか?

*1:私はガンダムの世代より古いのでこのくだりはよく分かりません