エーゲ海のある都市の物語:ミュティレネ(15):ペルシア戦争

ペルシア王ダレイオスは、イオニアの反乱にギリシアアテナイとエレトリアが加担したことを口実に、ギリシア本土に攻め込むことを決意しました。のちに第一次ペルシア戦争と呼ばれるこの時のペルシア軍の侵攻にはミュティレネの海軍も従軍を命じられたと想像します。しかしペルシアの陸軍はアテナイ近くのマラトンの平野での戦い(BC490年)でアテナイ軍を中心とするギリシア軍によって撃退され、海軍の出番がないままペルシア軍はペルシア本土に撤退しました。ダレイオス王はその雪辱を晴らすために再度の侵攻を準備していたのですが、準備中に死去し、息子のクセルクセスが王位を継ぎました。
クセルクセスは父王のうらみを晴らすために1回目の時より大規模な軍勢を編成し、王自らが出陣するという体制で、2回目のギリシア本土侵攻を実行に移しました(BC480年。第二次ペルシア戦争)。しかしアテナイに近い島サラミスの近くで行われた海戦で、今度はアテナイを中心とする海軍のために敗北を喫します。この時もミュティレネの海軍も参加していたのではないかと思うのですが、ヘロドトスの記述には登場しません。サラミスの海戦の惨敗に慌てふためいたクセルクセス王は早々にギリシア本土をあとにしてペルシアに撤退します。彼はペルシアの将軍マルドニオスに陸軍を与え、あとを託します。一方、海軍のほうはサモス島まで撤退します。

一方クセルクセスの水軍の残存部隊は、サラミスから脱出してアジアに達し、王とその軍勢をケルソネソスからアビュドスに渡らせた後、キュメで冬を過した。春の萌しとともにサモスに集結したが、ここには艦隊の一部が冬営していた。(中略)何分はなはだしい打撃を蒙った後であるので、それ以上西へ向うことはせず、それを強制するものもないままサモスに居坐り、イオニア船を加えて合計三百隻の陣容をもって、イオニアが反乱を起さぬように警備していた。


ヘロドトス著「歴史」巻8、130 から

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)

歴史 下 (岩波文庫 青 405-3)



一方、ギリシア側の海軍はといいますと、これはスパルタ王レオテュキデスが司令官となっていましたが、デロス島までは進出したものの、その先は地理に不慣れでもあり、また敵艦船が充満しているようにも思えて、そこから東に進むことが出来ずにいました。ミュティレネは、サモスのペルシア海軍を恐れて表面上はペルシアに忠誠を誓っていました。しかし裏では策動があったようです。



(右:ギリシア兵とペルシア兵。アテネ国立博物館蔵)



ギリシア北部のテッサリアで冬を越したマルドニオスとその軍隊は翌BC479年、南下してアテナイを再度目指しました。その頃、デロス島ギリシア海軍の許に3名のサモス人がひそかに訪れて、スパルタ王レオテュキデスに、サモスに来航してペルシアと戦って欲しい、と要請しました。そうすれば全イオニアがペルシアに対して反乱するだろう、というのです。そこでレオテュキデスが艦船をサモスに進めると、ペルシア側はかなわぬと判断してサモスの対岸にある小アジアのミュカレまで撤退し、そこのペルシア陸軍と合流することにしました。これを機にギリシア側はミュカレに上陸し、ペルシア軍に襲い掛かりました。すると今までペルシア側についていたギリシアの諸都市はペルシアに対して反乱し、ミュカレの戦いはギリシア側の勝利になりました。この時にミュティレネもギリシア側に立って参戦しました。


さて不思議な偶然なのですが、ミュカレの戦いと同じ日に遠く離れたプラタイアではスパルタの将軍パウサニアスが率いるギリシア諸都市の連合軍がマルドニオスのペルシア軍を破っています。この日をもってペルシアのギリシア侵攻の目論見は完全についえたのでした。


ミュティレネを含むギリシア諸都市は、ミュカレの戦いに勝利を得たギリシア海軍がサモスに戻った時にその軍事同盟に正式に参加しました。それはギリシア本土の保護がなければペルシアから報復を受ける恐れが強かったからです。

かくしてサモス、キオス、レスボスをはじめギリシア軍に加わって参戦していたその他の島の住民を、忠誠を守って決して叛かぬと確約誓言させた上で同盟国に加えた。


ヘロドトス著「歴史」巻9、106 から