エーゲ海のある都市の物語:テラ(1)

今度は、キクラデス諸島の南部、ドーリア人の島テラを取り上げることにします。


古典期ギリシアの方言の分布図。デロス島とテラ島では方言が違う。デロス島イオニア方言、テラ島はドーリス方言


キクラデス諸島のドーリア人の島としてはほかにメロス島(ミロのヴィーナスの出土地)などがあります。テラは現代の発音ではティラというのだそうですが、日本ではサントリニという別名のほうがよく知られています。エーゲ海の風光明媚な観光地です(一度、行ってみたいと思っています)。エーゲ海の旅のイメージとしてよく登場するのがミコノス島やサントリニ島の風景です。

ティラ島の観光地イアの風景


上の写真のイアの町、あるいは同じく観光地のフィラの町は断崖絶壁の上にあります。そのことが独特の風景を作っているのですが、海側から見ると右の写真のような感じです。



なぜ、こんな絶壁になっているかというと、この島はかつて周りの島々と一体となって上から見たら丸い島になっていたそうです。それが、BC 1600年頃に中央の火山が大噴火して爆発し、今の島々が残ったというのです。このようにしてテラ島の高い絶壁が形成されたと地質学者は言います。


この大爆発の時、ギリシア人はまだこの島にやってきていなかったと歴史学者は推定しています。ではここにはどんな人が住んでいたのか興味のあるところですが、その話は後回しにして、まずはギリシアの伝説から、この島への植民の物語をご紹介したいと思います。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(12):繁栄と滅亡

ロス島が一番繁栄したのは、これよりあと、アレクサンドロス大王が若くして死んで、その帝国が後継者たちによって分割され、互いに覇を争っていたヘレニズム時代と、西方からやがて勢力を増してきたローマに支配され始めた時代でした。今、残っている遺跡はこの頃のものが多いようです。


エジプトの女神イシスを祀った神殿(BC 2世紀)


ヘレニズム諸王国(アンティゴノス朝マケドニアセレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトなど)のどの国がデロスをいつからいつまで支配したかを私は述べる能力がありません。「デロス島(10):デロス同盟」のところで少し述べたように、ギリシアの古典期には神殿の宝物庫が金庫の役割をはたしていたのですが、それがヘレニズム時代になると銀行のような役割をはたし始め、その融資によって貿易業などの商業が発達したのでした。BC 2世紀の初めにはデロス島マケドニア王フィリップ5世の支配下にありました。このフィリップ5世がBC 197年ローマと戦い(キュノスケファライの戦い)、ローマに負けたことによってデロスはローマの支配下にはいります。貿易港としてデロスをロドスに対抗させるローマの政策によりBC 167年、デロスは関税を要求されない自由港になり、商業がより発展します。BC 146年ギリシア有数の商業中心であったコリントス市をローマが破壊したことでデロスの貿易港としての地位はエーゲ海随一になり、多数の外国商人がデロスに住居を持つようになります。



左:クレオパトラの邸宅にある彫像




右:クレオパトラの邸宅(エジプト女王のクレオパトラとは無関係)


さて貿易の発展とともに、聖地には似つかわしくないものまで売られるようになりました。それは人間です。つまりデロスに奴隷市場が出来たのでした。ローマ(まだこの頃は帝国ではなく共和国)の急速な発展とともにイタリア半島の各都市の富裕層の間で奴隷の需要が高まってきたのです。デロスにあるイタリア人のアゴ(=市場)は、巨大な奴隷市場でした。BC 1世紀の地理学者兼歴史家のストラボンは「デロスでは毎日1万人の奴隷が売られていた」と述べています。しかし、以下の記事が示すように、それを文字通りに受け取る必要はなさそうです。



左:イタリア人のアゴ

 悪名高いイタリア人のアゴラは、巨大な奴隷市場であった。ヘレニズム王国間の戦争は奴隷の主な源泉であったが、海賊(彼らはデロス港に入る際に商人の地位を身に着けた)もそうであった。ストラボン(XIV、5,2)が、毎日1万人の奴隷が売られていると述べている時、その数は著者が「多くの」という言い方である可能性があるため、この主張にはニュアンスを加える必要がある。さらに、これらの「奴隷」の多くは、しばしば戦争捕虜(または海賊に拉致された人)であり、彼の身代金は下船時にすぐに支払われた[71]。



英語版Wikipediaの「キクラデス諸島の歴史:2 幾何学文様時代、アルカイック時代、古典時代。2.4 ヘレニズム時代」の項目より



毎日1万人は大げさかもしれませんが、それにしても奴隷に売られる人々の心情はどのようなものだったのでしょうか。青い空、青い海、白い大理石の建物を背景として、アポロンの神聖な島で、よりによって奴隷として売られるというのは、背景が明るく形象が明晰なだけに、ギリシア悲劇をそのまま地で行っているような余計過酷な光景に思えます。この頃のデロス島には不敬な者も多かっただろうと想像します。


その傲慢の罰なのか、デロスはその後100年前後のうちに滅亡します。
今のトルコ東北部からジョージアにかけてポントス王国という国がありました。BC 88年、この国の王ミトリダテス6世が今のトルコのエーゲ海沿岸にあるローマの属領を占領してローマ人を殺害し、さらにエーゲ海に進出しようとしました。その際にミトリダテスは「ローマからギリシアを解放する」という口実を使いました。これにアテナイ始め多くのギリシアの諸都市が賛同しましたが、デロスはローマの味方をしました。するとミトリダテスはデロスを懲罰すると称して自分の軍隊にデロスを2回に渡って破壊させたのです。このためデロスの人口は大きく減少してしまいました。ミトリダテスは最終的にはローマとの戦争に敗北し、エーゲ海の支配権はローマに戻るのですが、その後、貿易ルートの変化という出来事もあって、デロスは急速に衰退していきました。もともと人が住むのに適していない土地だった上、近くにミコノスというもっと居住に適した島があったため、デロスは紀元前が終わるまでに放棄され、無人になったのでした。そして1872年にフランス人が遺跡を発掘するまでこの島は忘れられた存在になっていたのでした。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(11):デロス島の「お清め」

「(6):キクラデス文明」でも少し触れましたが、このペロポネソス戦争の6年目(BC 426年)にアテナイによるデロス島の「お清め」が行われています。

同冬、アテーナイ人は神託の命ずるところと称して、デーロス島の清めをとりおこなった。この趣旨の清めはこれより先に独裁者ペイシストラトスによっておこなわれたことがあったが、しかしその時は島全体についてではなく、神殿から見渡せる限りの地域が清めの対象であった。しかし今回は島全体が清められ、その次第は次のごとくして進められた。先ず、デーロス島で死んだ者たちの墓地はみな取り除かれ、そして爾後この島での死亡、出産は禁じられ、それらの兆ある者はレーネイア島に移されることとなった。(中略)
そして清めをおこなったのち、アテーナイ人はこの時「デーリア」祭という四年おきの祭典を設けた。しかしデーロスでは遥か古い頃にも、イオーニア人や周辺の島嶼の住民たちが集う盛大な催しが行われていた。(中略)その後にわたっても島嶼の住民やアテーナイ人らは合唱隊を送り犠牲を携えた参詣使を送りつづけていたのであるが、戦乱のため、おのずと競技の催しやその他の賑いもほとんど絶えていたのを、今回ふたたびアテーナイ人の祭典創始によってまた競技がおこなわれるようになり、かつてはなかった騎馬競技もその種目に加わることとなった。


トゥキュディデス著「戦史」巻3、104 から

戦争中になぜこのようなことを行ったのでしょうか? 上記引用には「アテーナイ人は神託の命ずるところと称して」とありますが、私は「神託」が理由だったとは思えません。デロス島の祭を創始することで、イオニア人の団結を図ったのでしょうか? しかし、その後のアテナイはそういう意図を想定しても説明のつかない行動を4年後にしています。BC 422年のことです。

翌夏、有効期間一年の休戦協定はピューティア祭までに失効したのであったが、この休戦期間中にアテーナイ人は、デーロス人をデーロスから立ちのかせた。その理由は、一つには島民が、ある古いいわれによる贖罪をなさぬままに聖域の住民となっていたこと、また一つには、先年アテーナイ人が清めをおこなった際に、先にも述べたごとく使者の墓跡を取りのぞけばそれでよいと思っていたのであるが、じつは汚れた島民をそのままにしておけば、自分たちの清めが不充分にしかおこなわれていないことになる、と考えたためである。そこでデーロス人は、パルナケースがかれらに与えたアジアのアトラミュッティオンに移住するなど、その他各人心の赴くまま他の地に移っていった。


トゥキュディデス著「戦史」巻5、1 から

何とアテナイ人はデロス島民をデロス島から追放してしまったのです。何らかの政治的背景がありそうですが、それが何なのかよく分かりません。この岩波の本の注釈には「ある古いいわれによる贖罪をなさぬままに」のところに「その言われは不明」とあり、「パルナケース」については「ダスキュリオン(黒海への入口)地方のペルシア総督」とありました。
このデロス人たちは、翌年にはアテナイ人によって元のデロス島に戻されています。

またアテーナイ人は旧デーロス人をデーロス島に連れ戻した。これはアテーナイ人が戦争の被害に深く思いをいたし、またデルポイの神託もデーロス人の復帰を命じたからである。


トゥキュディデス著「戦史」巻5、32 から

ここでも「デルポイの神託」を持ち出していますが、それが理由とは私には思えません。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(10):デロス同盟

次の話でもデロス島は場所としての役割しか果たしていません。その話というのはペルシア戦争ののちアテナイが組織したデロス同盟の話です。
さて、エーゲ海の東岸、つまり小アジア側までのギリシア都市がペルシアの支配を離脱できるまでになったのは、スパルタとアテナイの力が大きかったのでした。しかしスパルタはミュカレの戦いでペルシアとの戦いは済んだと考えて、しばらくしてから手を引きました。そのため、アテナイギリシア連合軍の指揮権を手に入れました。

アテーナイ人は、(中略)指揮権をうけ継ぎ、その第一段階としてペルシア人追討のために、どの加盟国が軍資金、どの国が軍船を供給するべきかをとりきめた。その表向きの理由は、ペルシア王の領土に破壊行為を加え、報復する、ということであった。そのためにはじめてギリシア同盟財務官というアテーナイ人のための官職が設けられ、この職にある者たちが同盟年賦金を収納することとなった。年賦金というのは、同盟収入のうち貨幣で納入される部分の名称である。(中略)同盟財務局はデーロス島に設置され、加盟諸国の代表会議は同島の神殿において開催されることとなった。


トゥーキュディデース「戦史 巻1・96」より

戦史〈上〉 (岩波文庫)

戦史〈上〉 (岩波文庫)



こうして発足したのが後世、デロス同盟の名前で呼ばれる同盟です。この同盟はBC 478年に結成され、それと同時にデロス島に「デロス人の神殿」と呼ばれるアポロンに捧げられた神殿の建設が始まります。そして同盟諸国から徴収された年賦金は、この神殿に付属する宝物庫に保管されました。本来、神殿への奉納物を保管する目的の宝物庫が、金庫の役割を果たすことになったのです。
 この同盟は時が経つにつれて、アテナイが他国を支配する機構に変質していきました。

アテーナイ人は同盟諸国が義務を遂行することを杓子定規に要求し、このような重荷を担ったこともなく、また担う意志もない者たちにたいしては苛酷な強制を課し、同盟諸国を苦しめた・・・。(中略)アテーナイ人は盟主として一般的にいちじるしく不評判となってきていた。かれらは同盟軍を率いて遠征するときにも特権を行使するようになったので、ますます容易に同盟離叛国に強圧を加えることができるようになった。しかし事態を此処に至らしめた責任は同盟国自身の側に帰せられる。なぜならば、故国から離れることを嫌った多くの同盟諸国の市民らは、遠征軍に参加するのを躊躇し、賦課された軍船を供給する代りにこれに見合う年賦金の査定をうけて計上された費用を分担した。そのために、かれらが供給する資金を元にアテーナイ人はますます海軍を増強したが、同盟諸国側は、いざアテーナイから離叛しようとしても準備は不足し、戦闘訓練もおこなわれたことのない状態に陥っていたからである。



トゥーキュディデース「戦史 巻1・99」より

デロス同盟を離脱しようとするポリスは同盟軍によって鎮圧され、次々にアテナイの属国に落とされていきました。アテナイの全盛期をもたらした優れた政治家ペリクレスは、同時に他国に対してはアテナイの支配権を維持し強化する圧政者の顔も持っていました。彼は同盟の金庫をデロス島からアテナイに移してしまいました。この頃には同盟諸国もアテナイのこの処置に抗議する気概もなくなっていました。同盟の金庫がアテナイに移されると同時に「デロス人の神殿」の建設もストップしてしまいました。その代わり、アテナイでは(今でも有名な観光資源である)アクロポリスパルテノン神殿の建設が始まりました。もちろん、同盟の年賦金が流用されたのでした。ペリクレスの政敵がそのことを非難した際、ペリクレスは「我々は同盟国のために戦ってペルシア軍を防いだのであるから、それに対して費用の明細を示す義務はない」と答えたと伝えられています。
ロス島は同盟の本部ですらなくなっていました。この状態でBC 431年、アテナイを中心とするデロス同盟は、スパルタを中心とするペロポネソス同盟とギリシア世界の覇権を争うペロポネソス戦争に突入したのでした。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(9):ギリシア海軍のデロス島集結

さて、ダレイオス王の息子で次代のペルシア王になったクセルクセスはBC 481年、2度目のギリシア侵攻を実行します。今度は前回よりも大規模な軍勢で、海岸沿いの陸を進む陸軍と、海岸沿いの海を進む海軍の2段仕立でした。今回は軍勢が大陸の海岸沿いを伝ってきたため、デロス島近くにはペルシア軍はやってきませんでした。
翌BC 480年、ペルシア軍はアテナイ近くで行われた海戦(サラミスの海戦)で惨敗します。惨敗に慌てふためいたクセルクセス王は早々にギリシア本土をあとにしてペルシアに撤退します。彼はペルシアの将軍マルドニオスにあとを託します。マルドニオスとその軍勢は、再度のアテナイ侵攻を実行するために、ギリシア北部のテッサリアで冬を越しました。古代のこの地方では冬は戦争をしないことになっていたのです。

 ギリシア方にあっても、春の到来とマルドニオスがテッサリアにあることによって、その活動はふたたび活発となった。陸上部隊はまだ集結していなかったが、水軍は総勢百十隻の船がすでにアイギナに到着していた。水軍の総指揮に当ったのは(注:スパルタ王)レオテュキデスで(中略)。
 全艦船がアイギナに到着した頃、イオニアからの使節の一行がギリシア陣営にきた。彼らは(中略)ギリシア人のイオニア出兵を懇願するために(中略)アイギナにきたわけである。しかし彼らはギリシア軍をデロスまで連れ出すのがやっとのことであった。それより先は地理に不馴れのため、ギリシア軍にとってはなにもかも恐ろしく、いたるところに敵兵が充満しているような気がしたのである。(中略)こうして符節を合せたように、ペルシア軍は恐れをなしてサモスより西方に船を進める勇気はなく、一方ギリシア軍もキオス人たちの懇請にもかかわらず、デロスより東方へは敢えて進もうとしなかった。要するに恐怖感が両軍の中間地帯の安全を確保したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻8、132 から



ギリシア連合軍側はペルシア軍を恐れてデロス島より東に艦隊を進めることが出来ずにいました。そうこうしているうちに、デロス島ギリシア海軍の許に3名のサモス人がひそかに訪れて、スパルタ王レオテュキデスに、サモスに来航してペルシアと戦って欲しい、と要請しました。

 スパルタ人レオテュキデスに率いられたギリシア水軍が、デロスに来航してここに停泊しているとき、サモスからトラシュクレスの子ランボン、アルケストラティデスの子アテナゴラス、アリスタゴラスの子ヘゲシストラトスの三人が使者としてギリシア軍を訪れた。この三人は、ペルシア軍およびペルシア方がサモスの独裁者として擁立したアンドロダマスの子テオメストルには内密にして、サモス人が派遣したものであった。彼らはギリシア軍の指揮官たちに面接すると、ヘゲシストラトスがさまざまなことを長々と述べたてた。すなわち、イオニア人たちはギリシア軍の姿を見ただけで、ペルシアから離反するであろうし、ペルシア軍はとうていこれに抵抗できぬであろう。かりに抵抗するとすれば、ギリシア軍にとってこれほどの好餌はまたと得られぬであろう。そしてヘゲシストラトスは彼らが共通に尊崇している神々の名を呼び、同じギリシア人である自分たちを隷属の状態から救い出し、ペルシア人を撃退してほしい、とギリシア軍の指揮官たちを促した。彼がいうには、ギリシア軍にとってそれはた易いことである。なぜならペルシア軍の艦船は性能が悪く、とうていギリシア軍の敵ではないから、というのであった。そして自分たちとしては、もしギリシア方を罠にかけるのではないかとの疑惑をもたれるならば、人質として船に載せられてゆく覚悟もできている、といった。
 サモスからきたこの男が必死に嘆願したところ、レオテュキデスは――相手の言葉によって先のことを占うつもりであったのか、あるいはたまたま神がそのように仕向けられたのか――
「サモスから来られたお人よ、そなたの名はなんといわれる」
と訊ねた。相手がヘゲシストラトスであると答えると、レオテュキデスは彼がさらに言葉を続けようとするのを遮っていうには、
「そなたの名をよい前兆として受け取ることにしよう。サモスのお人よ。そなたもそなたに同行の諸君も、サモス人は熱意をもってわれわれに協力し敵に当ると信義を誓った上、引き上げるようにしてもらいたい。」


ヘロドトス著「歴史」巻9、90、91 から



スパルタ王レオテュキデスが「そなたの名をよい前兆として受け取ることにしよう」と言ったのは、ヘゲシストラトスという名前が「軍を案内する者」という意味だったからでした。そこでレオテュキデスが艦船をサモスに進めると、ペルシア側はかなわぬと判断してサモスの対岸にある小アジアのミュカレまで撤退しました。これを機にギリシア側はミュカレに上陸し、ペルシア軍に襲い掛かりました。すると今までペルシア側についていたギリシアの諸都市はヘゲシストラトスの言った通り、ペルシアに対して反乱しました。その結果、ギリシア側はペルシア軍をやぶることが出来ました。


それにしてもこの物語では、デロス島は単に場所としてしか登場しません。デロスの住民が何をしたのか伝わっていないのです。ここがデロス島の物語を述べる際のつらいところです。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(8):ダティスの見た夢

 ダティスがデロスの海域から去ったのち、デロスに地震があったとデロスの住民は伝えている。そしてデロスにおける地震は今日に至るまで、これが最初であり最後であったという。(中略)
 ペルシア軍はデロスを去って後、次々に島に接岸してそこから軍兵を徴用し、住民の子供を人質とした。ペルシア軍は島々を廻っている間にカリュストスへも寄った。カリュストス人は彼らに人質も渡さず、また近隣の町――というのはエレトリアとアテナイを指したものであったが――の攻撃に参加することも肯じなかったからで、ペルシア軍はカリュストスの町を包囲攻撃しその国土を荒したため、遂にカリュストス人もペルシア軍の意に服することとなった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、98〜99 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)



このダティスの遠征軍は、アテナイ近郊のマラトンに上陸したところをアテナイ軍を中心とするギリシア軍によって撃退されます。ダティスは再度戦いを試みることなくペルシアに退却します。その帰り道、デロス島のすぐ東のミコノス島に碇泊した時のことです。ダティスはそこで何か重大な意味を持っていそうな夢を見たそうです。残念ながらどんな夢だったのかは伝わっていません。

遠征軍を率いてアジアに向ったダティスがミュコノス島に着いた時、睡眠中ある夢を見た。それがどんな夢であったかは伝わらないが、夜が明けるとすぐに諸船の捜索を命じ、フェニキア船内で金箔を張ったアポロンの神像を発見すると、どこから奪ってきたものかと問い訊した。その神像を奪ってきた聖所の名を知ると、ダティスは自分の船でデロスへ向った。というのはこの頃にはすでにデロスの住民は帰住していたからであるが、ダティスは神殿に像をおさめ、テバイ領のデリオンに神像を返すように命じた。デリオンは海辺にありカルキスと相対する土地である。
 ダティスは右のように指令して去ったのであるが、デロス人はこの神像を送り返さず、ようやく二十年後になってテバイ人自身が神託に基いてこれをデリオンへ運んだのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、118 から

フェニキア船内で」という言葉が出ていますが、当時フェニキアはペルシアに服属しており、もともと陸の民であるペルシアに代わってペルシア海軍の主力を形成していました。ダティスは、自分配下の軍勢の誰かがアポロンの神像を略奪したことを警告する夢を見たのでしょう。「その神像を奪ってきた聖所の名を知ると」とありますが、その場所とはおそらく後に登場するデリオンなのでしょう。ギリシア本土で敗戦の憂き目にあったダティスはいまさらデリオンまで神像を返しにいくわけにもいかず、デロス島の住民に返却を依頼したのでしょう。


それにしてもここでのデロス人の行動は納得がいきません。デロス人は神像をデリオンに送り返さないまま20年が過ぎ、結局デリオンを領有するテバイ人が自分から回収にきたというのです。神がダティスに神像の返却を促したのなら、20年間放置していたデロス人にも警告の夢を送らなかったのでしょうか? よりによってアポロンの島の住民デロス人がこんなことをしたとは、どういうことなのでしょう。よく分からない話です。

エーゲ海のある都市の物語:デロス島(7):ペルシア戦争まで

ではイオニア人到来以降のことを書いていきます。
キクラデス諸島のすぐ北にはエウボイア島という大きな島がありますが、BC 710〜BC 650年頃に行われた、エウボイア島にある2つの町、カルキスとエレトリアの間の戦争、いわゆるレラントス戦争にデロス島は巻き込まれなかったようです。この頃、デロス島を含むキクラデス諸島は1つの盛期にあたっていました。ミロス島とシフノス島の黒曜石、シロス島の銀、サントリーニ島軽石、パロス島の大理石、といった島々の特産品を交易することによって、キクラデス諸島は繁栄していました。

特にナクソス島の力が強かったようです。BC 600年より少し前、ナクソスは、デロス島ライオンのテラスという物を作って、アポロン神に奉献しています。元々は9頭から12頭の大理石のライオンの像があったようですが、今は7頭しか残っていません。これらはデロスの聖なる道に沿って並んでいました。


その後、アテナイの僭主ペイシストラトスがデロス島の「お清め」をしています。

彼は神託に従って、デロス島の浄祓を行なった。浄祓は次のように実施された。すなわち、神殿から見はるかせる限りの全域から、埋葬されている遺体を掘り出し、これを島の他の地域に移したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻1、64 から

この出来事はトゥキュディデスもその著書に書いています。

この趣旨の清めはこれより先に独裁者ペイシストラトスによっておこなわれたことがあったが、しかしその時は島全体についてではなく、神殿から見渡せる限りの地域が清めの対象であった。


トゥキュディデス著「戦史」巻3、104 から


その後、エーゲ海の東側の小アジアギリシア諸都市がペルシアの支配下に入りますが、まだデロス島までペルシアの力は及んではいませんでした。サモス島の僭主ポリュクラテスがその強力な海軍によってデロス島のすぐ隣にあるレナイア島を奪い、これをデロス島と鎖で結びつけて、デロスの神アポロンに献上したことがありましたが、これは単なるエピソードに終ります。
しかしBC 498年に事態は変わります。この年、小アジアのミレトスを中心とするギリシア諸都市がペルシアに対して反乱を起こすという事件(イオニアの反乱)が起こると、アテナイと、エウボイア島のエレトリアがこの反乱に協力しました。イオニアの反乱はBC 494年にペルシアによって鎮圧されましたが、ペルシアはアテナイとエレトリアが反乱に援軍を出したことを口実にして、エーゲ海を西へと侵攻し始めました(BC 492)。これが(第一次)ペルシア戦争の始まりです。
ペルシア軍の総大将ダティスは兵馬を満載した艦隊を率いて西へ進みました。まずはキリキア(小アジア南岸)で軍を終結させ、それから北上し、次にサモス島から西に向かい、イカリア島まで進みました。ここまではイオニアの反乱後ペルシアに服属した領域です。ここから西は当時のペルシア領の外になります。ペルシア艦隊はイカリア島から少し南に下がってナクソス島を攻略しました。ここからデロス島まではわずかな距離です。ペルシア軍が近づいたことを知ったデロス島の住民は、北隣のテノス島に避難します。
この時、ダティスが意外な行動をとったことをヘロドトスは伝えています。

 ペルシア軍が右のような作戦を展開中、デロス島の住民もデロス島を引き払い、テノス島に避難した。艦隊がデロスに近付くと、ダティスは艦隊の先頭に出て、艦船がデロス島附近に碇泊することを許さず、デロス島の先にあるレナイア島に碇泊せしめた。ダティスはデロス人の所在を知ると伝令をやって次のように伝えさせた。
 「聖なる町の住民たちに告ぐ。何故にそなたらは故もなく私のことを悪しざまに思いなして、町を捨て退散したのであるか。かの二柱の神の生(あ)れましたこの国においては、国土にもその住民にも何らの危害も加えぬという程の分別は私自身にもあるし、また大王からそのように仰せ付かってもいる。さればそなたらもおのおの自宅に帰り、この島に居住するがよい。」
 ダティスはこのようにデロス人に伝えさせたのち、三百タラントンの香木を積み上げ、これを焚いた。


ヘロドトス著「歴史」巻6、97 から

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)

歴史(中) (岩波文庫 青 405-2)


ギリシア人ならぬペルシアの総大将が(正確にいえばダティスはペルシア人ではなく、ペルシアに服属していたメディア人の出身ですが、とにかくギリシア人ではありません)ギリシアの宗教を尊重して、デロス島に近づかなかった、というのです。上の引用中「かの二柱の神の生(あ)れました」というのはデロス島アポロンとアルテミスの兄妹が生まれた神話のことを指しています。しかし、これはギリシアの神話なのですから、ペルシアやメディアの人間が知っていると思えません。仮に伝聞で知っていたとしても、それを尊重するとも思えません。「また大王からそのように仰せ付かってもいる」という言葉から、デロス島を迂回するというのはペルシア王ダレイオスの意志でもあることが分かります。最後の「三百タラントンの香木を積み上げ、これを焚いた」というのはアポロンとアルテミスへの崇拝の意を表したものでしょう。ヘロドトスの伝えるこの話が本当だとしたら、不思議な話です。とはいえ、もしデロス島がペルシア軍に攻略され、人々が捕縛され奴隷にされていたら(ナクソスではこれが起こりました)、上の引用のような話は伝わらなかったと思うので、理由はともあれ、ペルシア軍がデロス島を迂回して西に進んだのは確かなようです。