コンピュータ創世記(3)

1939年アタナソフとベリーが作り出したコンピュータは、重さが320kgで机ほどの大きさだった。一方、モークリーとエッカートを中心とするペンシルベニア大学のチームが1946年に開発したENIAC、しばしば世界最初のコンピュータと言われたENIACは、重さが27トン、幅30m、高さ2.4m、奥行き0.9m、の巨大な機械だった。このような巨大なコンピュータの開発が可能になった大きな要因は第二次世界大戦である。ENIACは戦争遂行のためにアメリカ陸軍が資金を提供して開発された一種の兵器であった。それは直接には人を殺さないが、大砲の砲弾の軌跡、すなわち弾道をもっと高速に計算することによって、命中力を高めるために開発された。
当時、戦場において砲弾を命中させるために大砲をどの方向にどの角度で発射すればよいかは、かなり複雑な問題だった。そこには目標物までの距離のみならず、風向・風速・気温など多くの要因が関係してくる。 長距離になると地球の自転による影響である「コリオリの力」まで関係してくる。当時の技術では、戦場の現場でそのような諸要因を計算して大砲の方向と角度を決定することは出来ないため、あらかじめ諸要因の組み合わせ毎に計算された数表が軍隊に配布されていた。これを弾道表という。この弾道表を計算するのが、当時の技術では非常に時間と人間を要する作業だった。


話を1940年に戻す。
1940年に、ペンシルバニア大学での「科学の発展のためのアメリカ協会」の大会でモークリーがアタナソフに会った時に、すでにモークリーはいくつかのアナログコンピュータを開発していたが、その性能に満足していなかった。もっと高速で精度の高い計算機を求めていたモークリーはアタナソフのコンピュータに興味を持った。その後モークリーとアタナソフは、計算機の問題について連絡を取り合っていた。そして1941年6月モークリーはアタナソフとベリーを訪問し、アタナソフ&ベリー・コンピュータ(ABC)を4日間に渡ってじっくり見学させてもらった。モークリーはアタナソフによってデジタルコンピュータの可能性を理解したのだろう。
その後モークリーは最新の電子装置と電子技術を学ぶためにペンシルバニア大学の電気工学科、通称ムーア・スクール「工学、科学、戦争管理の訓練プログラム(Engineering, Sience, and Management War Training program)」通称ESMWTというプログラムに参加した。これは一年前の1940年にアメリカ政府が立案した技術者育成プログラムで、第二次世界大戦に自国が巻き込まれるのを予期していたアメリア政府は、現代戦に不可欠な技術者を育成・訓練するためにこのプログラムを立ち上げた。政府はいろいろな大学に対して資金を援助してこのESMWTプログラムを開始させていたが、ムーア・スクールもその中のひとつであった。
その時、ESMWT講座に付設された電子工学研究室の助手であったのがジョン・エッカートであった。彼はまだムーア・スクールの大学院生であったが、その電子工学的才能のために人々から「ムーア・スクールの最も輝かしい大学院生」と呼ばれていた。モークリーはエッカートと知り合い、エッカートはモークリーの電子式大規模高速計算機のアイディアの実現可能性を理解した。2人は電子工学を駆使して高速計算を可能にする機械について議論を繰り返すようになった。
1941年12月、日本がアメリカを攻撃し、これをきっかけにアメリカは第二次世界大戦に参戦した。(日本人はついつい誤解するが、この時、アメリカにとって主たる敵は日本ではなくドイツだった。) この情勢変化を受けて、モークリーはムーア・スクールのESMWTを通して自分のコンピュータの構想を陸軍に売り込むことを計画した。

1942年に“真空管装置の計算への応用”という表題の5ページの論文にまとめた。モークリーは、弾道学上の問題解決、すなわちいかに迅速に弾道表を作成するかが、ムーア・スクールの使命であることを十分認識していたのである。事実、新しい大砲の弾道表を一刻も早く作成したいという要求は日増しに強まり、弾道計算をより高速に行う方法を発見することが喫緊の課題となってきた。軌道計算には卓上計算器で40時間かかっていた。同じ問題がもっと精巧な微分解析機では30分で完了した。しかし、ムーア・スクールにはそのような機械はたった1台しかなかった。弾道表の作成には、何百という砲弾の軌道を計算しなくてはならないので、新たな大砲1門の弾道表を作成するには1ヶ月かかった。モークリーはこの報告書の中で、毎秒1000回の乗算を実行できる電子式機械では弾道表は、数日はおろか数分以内で作成できるだろうと論証した。
1943年に連合軍は北アフリカに上陸した*1。そこには、今まで砲兵が見たことのない地形が展開されていた。軍は急遽弾道表をほとんど全面的に修正しなくてはならなくなった。軍の要求は計算器の処理能力を上回り、弾道表の作成はますます間に合わなくなってきた。この緊急事態が電子式ディジタル・コンピュータの開発を急がせる決定的なきっかけとなった。


情報化時代の幕開け VOL.4―ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−:ユニシスの歴史―日本ユニシス ホームページ」より

こうしてENIAC開発プロジェクトは始動した。

1943年6月5日には、ペンシルバニア大学評議会とアメリカ陸軍軍需品部(U.S.Army Ordnance Department)は、プロジェクト責任者ブレイナード、主任工学技術者エッカートの立ち会いの下に、契約番号W-670-ORD-4926の開発契約書を締結した。モークリーはプロジェクトの主幹コンサルタントとなり、ゴールドスタインは陸軍の技術担当窓口となった。正式の契約書が締結されたその機械は、「電子式数値積分器及び計算機」(Electronic Numerical Integrator And Computer)、ENIAC命名された。契約書に署名されてまもなく、ENIACの開発資金がアメリカ陸軍からペンシルバニア大学へ流れ始めた。


情報化時代の幕開け VOL.5」「情報化時代の幕開け VOL.6―ENIAC誕生50周年記念 −その歴史を追って−:ユニシスの歴史―日本ユニシス ホームページ」より


私は、この記述をするのに年代順を重視することを心掛けてきた。モークリーとエッカートのENIAC開発の話はまだまだ続くが、私は私自身の興味に従ってこの年に起きた別の事に話題を転じたい。それはアメリカの神経生理学者マカロックと、同じくアメリカの若い数学者ピッツが発表した論文「神経活動に内在する観念の論理計算(A Logical Calculus of the Ideas Immanent in Nervous Activity)」についてである。

*1:これは1942年の間違いではないか?