プルースト「失われた時を求めて――スワンの恋」を読書中

「第一篇 スワン家のほうへ」の「第二部 スワンの恋」は、「第一部 コンブレー」の語り手(この小説主人公。名前は最後まで出てこない)の幼年時代、少年時代よりももっと過去の時代にさかのぼります。そこで主題になるのはスワンとやがてその妻になるオデットの恋物語ですが、私には何とも苦い話のように思えます。今回、ちょっとした気まぐれのために、もう一度「スワンの恋」を読み始めました。昨日はp.314から340までです。「スワンの恋」は以下の文で始まります。

ヴェルデュラン家の「小さな核」、「小さなグループ」、「小さな党」に所属するには、一つの条件で十分であった、しかしそれは欠かせない必要条件であった、つまりある信条を暗黙のうちにまもらなくてはならなかったのであって・・・・

昨日読んだ冒頭の20ページ強の記述のかなりの部分は、ヴェルデュラン家という裕福なブルジョワが主催する社交のグループ(サロンというのでしょうか)がどんなものであるかの描写です。上に引用した文章にある、ヴェルデュラン家のサロンに参加するのに必要不可欠な信条というのは、ヴェルデュラン夫人の意見(たとえば、どんな音楽家が優れているかとか、どんな画家が優れているか、についての意見)に逆らわない、ということです。そのようなことが上記引用文のつづきに述べられています。ここからこのヴェルデュラン夫人の支配的な性格がうかがわれます。ヴェルデュラン夫人は、そして夫人の意見に従うのが常であるヴェルデュラン氏もですが、本物の社交界に対する対抗意識があります。
私には社交界というもの自体が想像の外にあるものなので(一体全体、何のために社交界に出入りするのか、という目的の分からなさ、と、それからそのような暇を持つ生活自身を想像できないこと、の2つの理由で)ヴェルデュラン家のサロンの記述についてもあまり興味を惹きません。
ある時、このサロンには女性の会員(?)が高級娼婦(ココット)のオデットと以前、門番をしていた年配の女性の2人だけになっていたときがありました。オデットはその頃、スワンと知り合いになり、スワンに好意をもったので、スワンをヴェルデュラン家のサロンにさそったのでした。ところがオデット自身も知らなかったことなのですが、スワンはその頃すでに本物の社交界での花形であり、大貴族や有名な政治家の知り合いに恵まれ、しかも、もうその社交界に飽きていた、というような人物でした。また、彼はオデットに最初に出会った時には

なるほど美しくない女とは思われなかったが、しかし彼が関心をそそられるといった美しさではなく、なんの欲情もそそらず、むしろ一種の肉体的嫌悪をさえ起こさせるといった美しさに属する女・・・

などと思っていたのでした。そんなスワンがなぜオデットの言うことに従ってヴェルデュラン家のサロンに顔を出すようになったのか、この小説はスワンの複雑な心境の変化を叙述していますが、私にはどうも理解出来ないです。例えば、こんな記述です。

生涯のそうした時期にあっては、人はすでに何度も恋にとらわれた経験をもつ、そして恋愛は、すでに心構ができて受身になったわれわれの心のまえに、もはやその不可解で宿命的な固有の法則にしたがってひとりでに進展することはない。われわれのほうが恋愛をたすけに出てゆき、記憶により、暗示によって、恋愛をうまくさそいだすのだ。恋愛の徴候を一つでも認めると、われわれはその他の徴候を想起し、再生させるのである。われわれは胸の奥にすっかり彫りつけられた恋の歌をもっているので、ある女が歌のはじめを――美がかきたてる賞賛の念に満ちあふれたその歌のはじめを――うたってくれなくても、つづきが見出せる。