5 王朝の貴族    日本の歴史(その2)


5 王朝の貴族    日本の歴史(その1)」の続きです。

 皇后に移った定子はその年(1000年)12月、媄子内親王の出産にさいして25歳の若さで世を去り、事実上二后並立の期間は1年にも満たなかったが、道長としては、このような定子の崩御などは予測できようはずもないから、強引に彰子の立后を促進し、実現させたのである。
 こうして定子の崩御によって中宮彰子の地位は確固不動のものとなり、さらに10年ののち、1008年(寛弘5)9月、道長のひたすら待ち望んだ敦成(あつひら)親王の誕生を見て、道長には次代東宮の外祖父という資格がそなわり、ついで敦成親王立太子、さらには即位と、事は筋書きのとおりに運ばれていったのであった。才色兼備の彰子という長女に恵まれて、幸運児道長の地位はますますその安泰の度を加えたのである。


大筋はこの通りですが、ただし、一条天皇崩御で即位したのは敦成親王ではなく、その間に三条天皇がはさまれています。三条天皇一条天皇の兄で、一条天皇の時の東宮でした。敦成親王三条天皇東宮となり、その次に天皇に即位したという経緯になります。ところでこの三条天皇道長と仲が悪かったということです。この本には両者の暗闘も書かれています。それは平安時代の貴族社会に似つかわしい、裏でこそこそねちねちやる、という暗闘の仕方でした。この暗闘は最終的に道長の勝ちとなり、三条天皇は退位に追い込まれます。いよいよの道長の孫の敦成親王が即位して後一条天皇となります。上皇となった三条天皇には敦明(あつあきら)親王という第一皇子がありましたが、道長はこの敦明親王後一条天皇東宮に立てることで三条上皇をなだめたのでした。しかし三条上皇は1年にして崩御します。するとこの時を待っていた道長敦明親王に圧力をかけて東宮を辞退させてしまいます。新東宮に立ったのはやはり道長の孫で後一条天皇の弟にあたる敦良(あつよし)親王です。この親王後一条天皇崩御ののち後朱雀天皇として即位しますが、それは道長が没したあとのことでした。一方、道長東宮を辞退させた敦明親王を厚遇して不満を和らげます。さらに道長は、自分と一門の地位を安泰にする策を加えます。

この道長が、一家繁栄の路を開く最後の布石としてねらったものが、後一条天皇後宮に娘を送りこむ、すなわち威子(いし)の入内・立后という一件である。しかし、ここまで来てしまえばかれの行く手をさえぎる強敵はあるはずもなく、その達成はたやすいものであった。


やがて威子は中宮に立ちますが、その立后の儀式のあとのことです。

さて、中宮職の職員任命が終わって、一同は公卿以下そろって土御門邸の威子のもとに拝礼に行く。庭に並んで礼をおこない、それから東の対に設けた席に着いて、祝宴が始められた。(中略) 道長は冗談なども言って上機嫌であったが、ふと大納言実資(さねすけ)を招き寄せて、
「歌を詠もうと思うが、貴君にもかならず一つ詠んでもらいたい」
と言った。

この大納言実資とは藤原実資のことで、他の貴族が誰も彼も道長になびくのに対して、彼だけは道長に対しても筋を曲げなかった一家言を持つ人物でした。道長にとっては煙たい存在だったようで、三条天皇の御世には三条天皇が実資を頼りにして道長に対抗しようとしたこともありました。しかし実資は常に公正に行動し、過度に三条天皇の肩を持つようなことをしなかったので道長も彼には一目置いていました。それに実資には学識もありました。

実資が承知すると、
「自讃の歌だが、これは即興の作で、前もって作っておいたものではない」
とことわっておいて、つぎの有名な歌を読み上げたのである。
  此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

藤原実資はこの歌に対してうまい返歌を作ることが出来なくて「これほどの名歌に返歌は無用のことで、一同で繰り返しいまの御作を味わったらよろしいでしょう」と答えたということです。この時が道長の全盛期でしょう。

望月の歌を詠んだ道長は、威子の立后をもってみずから満足し、そののちは急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾けはじめた。

道長は、来世にたいする準備においても、当代第一の人だったのである。

この本は今は残っていない法成寺の規模の雄大さを説明します。そしてそこに移り住んで、やがて病を得て死んでいく道長の様子を描きます。

思えば996年(康保3)、村上天皇の治世の末年にこの世に生まれ出て、986年(寛和2)、21歳の年、父兼家が一条天皇の摂政となったときから急速に躍進し、10年にして天下筆頭の臣となり、以後30年間、無双の権勢を誇った道長の一生は、終始幸運にめぐまれたものであったといえよう。しかし同時に、かれはまた、その幸運の波に乗り、多数の朝臣を統御し、その信頼を得るだけの力量をたしかにそなえていたのである。

この本は道長亡きあとの時代を述べ、1058年に法成寺が火災で灰燼に帰すところで終わります。


今回読み直してみて、文章がおもしろく、引用したい文章が多数あるのに気づきました。なかなかよい本だと思います。ただ今回の私の紹介は藤原道長に焦点を絞り過ぎた点がまずかったのではないかと危惧します。それ以外にもこの時代を理解するのに必要なさまざまなことがこの本には説明されていてそのどれもが興味深いのですが、それらまで含めて紹介するのは私の手にあまりました。