西洋哲学史―熊野純彦
- 作者: 熊野純彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/09/20
- メディア: 新書
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私には難しくてほとんど読めないうちに図書館に返すことになったが、昔から気になっている哲学者ライプニッツについての記述には得るところがあった。ライプニッツがちょっと分かったような気になってうれしかった。その部分をメモしておく。
個物が個物であるとは、だが、どのようなことがらだろうか。個物が、ほかでもない、その個物であるためには、その個物は他のいっさいの個物から区別されていなければならない。しかも、個物こそが基本的な存在者であるならば、その個物自体において区別されている必要がある。その個物を当の個物とする属性のすべてが問題の個物に内属し、他のいっさいの存在者からの差異そのものが、個物に内在しているのでなければならないのである。――差異を、いま隔たりと呼びかえてみよう。個物Aと個物Bとの隔たりは通常、AとBとのあいだでなりたつことがらであると考えられる。けれども、Aが、それ自体として、他のなにものでもない、当の個物Aであるとするならば、Bからの隔たり自身も、Aの概念のうちに書き込まれている必要がある。差異と関係も個物に内在する。
この個物の概念はおもしろい。私はそのような単独な個物が存在するとは思えないのだが、もし存在とはこのようなものであるとすれば、それは個物でありながらすでに他者を含んでいることになる。ライプニッツのモナドはこのような全体を含む個なのだろう。そこからライプニッツの次の文章も理解できるような気がした。
いわば、同一の都市でもそれを見る人の位置が異なるに従ってさまざまに表現されるように、おのおのの実体はそれなりに全宇宙を表出する。
この文章は、17年前、仕事が長引いて帰れなくて、エジンバラを彷徨していた頃、よく思い浮かべながら歩いた文章だった。