行ったつもりのアテネ:ディオニュソス劇場

有名なパルテノン神殿のあるアテネアクロポリスは、その言葉通り「高い(アクロ)」「町(ポリス)」であって、高い岩山の上に位置していて、アテネのいろいろな場所からその姿を見ることが出来ます。その高い岩山の下の斜面に2つのギリシア円形劇場の遺跡が残っています。ひとつはディオニュソス劇場で、これは古代ギリシアのもの、もうひとつはヘロデス・アティコス劇場でローマ帝国に支配される時代、前々から登場するハドリアヌス帝の時代より少しのちの時代、にヘロデス・アティコスによって建てられた劇場です。
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ディオニュソス劇場

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ヘロデス・アティコス劇場

ディオニュソス劇場といえば、後世、古代ギリシア三大悲劇詩人、と呼ばれたアイスキュロスソポクレース、エウリピデース、がその悲劇を最初に上演した、古代ではとても由緒正しい劇場でした。私が大学時代、初めて読んだギリシア悲劇アイスキュロス「アガメムノーン」で、それは呉茂一氏の訳でした。ここで、その初演が演じられたのかと思えば、感慨ひとしおです。一番低い所にある半円形の舞台に立って、――これをオルケストラというのですが、そして、これが現代語の「オーケストラ」の語源なのですが――大理石の感触を確かめつつ、アガメムノーンの一節をみずから演じてみたくなります。もちろん、私に出来るのは日本語で演じることでしかなくて、とても古代ギリシアの言葉で演じることは出来ません。


アガメムノーンというのは、ギリシア神話に登場する、古代ギリシアのミュケーナイ王国の王でした。彼は当時のギリシアの領域で権勢並ぶ者ない王者であり、弟メネラーオスの受けた恥辱を晴らすために全ギリシア将兵を率いて、今のボスフォロス海峡の近くにあったと推定されるトロイアを滅ぼしたのでした。その顛末はホメーロスイーリアスに詳しく書かれています。アイスキュロスの悲劇「アガメムノーン」はそのトロイアの征服が成就したところから始まります。トロイア戦争と言うのは伝説によれば10年も続いたということです。そのことは、10年間、アガメムノーンを始めギリシアの王侯貴族が自分の領国を離れていたということです。この10年の別離の間の情勢がアガメムノーンのテーマのひとつです。


アガメムノーンのお妃クリュータイメーストラー(私にとってはとても関心のある人物です)は夫アガメムノーンをひどく恨んでいました。それは、10年前、アガメムノーンが全ギリシア将兵を率いてトロイアへ出航しようとした時に、海からは常に逆風が吹いて、船団を出航させることが出来ませんでした。神々の意向を知ることが出来る予言者カルカースによって、それが女神アルテミスのお怒りであることが分かりました。そしてカルカースは、女神アルテミスにアガメムノーンの娘イーピゲネイアを生贄として捧げない限り女神の怒りは宥めることが出来ない、と告げます。アガメムノーンは、しかたなく自分の娘をだまして軍団まで連れてきて、女神アルテミスのための生贄にしたのでした。お妃クリュータイメーストラーはそのことをずっと恨んでいました。そこにつけ込んだのがアガメムノーンには従兄弟にあたるアイギストスです。彼の父テュエステースはアガメムノーンの父アトレウスに非常に残酷な目に会わされていて、アイギストスはその復讐を自分のライフワークにしていました。いつしかアイギストスはクリュータイメーストラーの心をつかむことが出来ました。ある日、クリュータイメーストラーは、夫アガメムノーンがついにトロイアを破壊し、やがて故国ミュケーナイに凱旋するという情報を得ました。彼女は、夫アガメムノーンを殺害する計画を立てます。そしてアガメムノーンがその軍勢とともにミュケーナイに凱旋する日が来ました。アガメムノーンとクリュータイメーストラーとの会話のあと、アガメムノーンが王宮に歩を進めるのをクリュータイメーストラーが眺めて、半ば独り言を言う、という場面があるのですが、その時のクリュータイメーストラーのセリフが私は好きです。独白で始まりながら、途中で夫に呼びかけたり、そのあと自分の殺害の決意に戻ったり、そして最後にこの殺害の成就を神々の王ゼウスに祈ったり、と、その変転する意識がとても現代的です。


そこで私は、このオルケストラに立って、クリュータイメーストラーを演じます。

海がある――その海を誰が干しつくせよう――その奥にはいっぱい、あの黄金にもひとしく貴い紫貝を養(か)い貯(た)めている、ぞくぞくと噴き出す真紅の汁の、あの着る衣を染めなす色(ここにアガメムノーンを殺害する際に現れるおびただしい血の流れのイメージがある)。館にはいくらでも、神助によって、殿さま、そうしたものがございます。私どもの家は、乏しいということはいっこう存じませぬゆえ。


ギリシア悲劇全集1」の「アガメムノーン」 呉茂一訳 より

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

ギリシア悲劇〈1〉アイスキュロス (ちくま文庫)

クリュータイメーストラーは、夫殺害をほのめかすような言葉を述べ、そのあと、自分の企ての成就を神々の王ゼウスに祈ります。

ゼウス神、願いを果たさすゼウス御神、何とぞ私の願いを遂げさせて下さいませ。その上は遂げようとお定めの何なりとも、神慮のままになされましょう。


「同上」

ここにはクリュータイメーストラーの切実な姿があります。クリュータイメーストラーは単なる悪役ではなく、彼女もまたゼウスに自分の願いを聞き届けてもらう資格があるのだと思います。私はこの「ゼウス神、願いを果たさすゼウス御神、何とぞ私の願いを遂げさせて下さいませ。その上は遂げようとお定めの何なりとも、神慮のままになされましょう。」が好きなのでした。


この物語がどうなっていくのか、それは「アガメムノーン」、そしてその10年後を描く「供養する女たち」、そしてそれに続く「慈しみの女神たち」に物語られています。この話は長いので、ここでは述べないことにします。