イオニアの反乱は、歴史上有名なペルシア戦争への導火線でした。ペルシア王ダレイオスは、イオニアの反乱にギリシアのアテナイとエレトリアが加担したことを口実に、ギリシア本土に攻め込むことを決意しました。「ミレトス(22):ミレトス陥落ののち」の最後に登場したペルシアの若き将軍マルドニオスはアテナイとエレトリアに陸海軍を率いていく途中で船の難破と通過する地方の住民の反撃に会い、目的を達することが出来ず解任されます。新たに任命された将軍は2人、一人はサルディス総督アルタプレネスの息子で同名のアルタプレネス、もう一人はメディア人の将軍ダティスでした。この2人に率いられた陸軍海軍のうち、海軍のほうにはイオニア人部隊が含まれていることをヘロドトスは記していますが、その中にミレトス人部隊があったのかどうかは書かれていません。私の想像では、この時ミレトスは「市民が一掃された」というほどではなくても相当の数の上流階級の人々が強制移住させられていたために、ペルシア軍の一翼を担うことなど出来る状態ではなかったと思います。
のちに第一次ペルシア戦争と呼ばれるこの時のペルシア軍の侵攻はアテナイ近くのマラトンの平野での戦いでアテナイ軍を中心とするギリシア軍によって撃退され、海軍の出番がないままペルシア軍はペルシア本土に撤退しました。BC490年のことです。ダレイオス王はその雪辱を晴らすために再度の侵攻を準備していたのですが、準備中に死去し、息子のクセルクセスが王位を継ぎました。
クセルクセスは父王のうらみを晴らすために1回目の時より大規模な軍勢を編成し、王自らが出陣するという体制で、2回目のギリシア本土侵攻を実行に移しました(BC480年)。しかし、またしてもアテナイの、そして今度は海軍のために、アテナイに近い島サラミスの近くで行われた海戦で敗北を喫します。この時にもイオニア人の海軍がペルシア側にいたことをヘロドトスが記していますが、そこにミレトスからの海軍が参加していたのかどうか分かりません。あるいは、サラミスに来る途中までは参加していたけれども、サラミスの海戦ではミレトスの裏切りを恐れて参加させなかった、ということかもしれません。というのはこのサラミスの海戦の少し前、アルテミシオンというところでペルシア、ギリシアの両海軍が戦った末にギリシア側が撤退したあと、ペルシア側が水の補給のためにギリシアの沿岸部に上陸すると、そこの岸壁にギリシアの文字でこう書かれているのをペルシア兵が発見したからでした。
イオニア人諸君、父祖の地に兵を進め、ギリシアを服属せしめんとするそなたらの行動は正しくない。そなたらにとって最善の道はわが方の味方となることである。それができぬというのならば、今からでもわれわれとの戦いには加わらぬようにし、カリア人にもそなたらと同様の行動をするように頼んでもらいたい。もしまた、敵の束縛があまりに強く離反ままならず、右のいずれの行動もとり得ぬのなら、そなたらの血統はわれわれの分れであること、またわれらの夷狄(いてき)に対する敵対関係も、元はといえばそなたらが因を成していることを心に留め、合戦の折にはことさら臆した行為に出てもらいたい。
ヘロドトス著「歴史」巻8、22 から
- 作者: ヘロドトス,松平千秋
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この文言を見て一番胸にこたえるのはミレトス人のはずでした。「そなたらの血統はわれわれの分れであること」という文言はミレトスがアテナイからの植民によって建設されたという言い伝えをミレトス人の胸に思い起こさせます。「またわれらの夷狄(いてき)に対する敵対関係も、元はといえばそなたらが因を成していること」というのもまさにミレトスがイオニアの反乱を引き起こしたことを指摘しているように思わせます。岸壁に刻まれたこの文章の存在はすぐにペルシア王クセルクセスの耳に入ったことでしょう。それを聞いたクセルクセス王が、イオニア人部隊は信用できない、特にミレトス人部隊は信用できない、と考えたとしても不思議ではありません。実は、この文言はアテナイの智将テミストクレスがまさにそのような効果を狙って兵士に岩に刻ませた文章なのでした。私が思うには、このためにたぶん、ミレトス人の海軍はサラミスの海戦に参加させてもらえなかったのだろうと思います。
BC480年のサラミスの海戦は見事なギリシア側の作戦勝利で、この詳細はいろいろな本で述べられています。しかし、ミレトスにはあまり関係ないのでここでは述べません。サラミスの海戦の惨敗に慌てふためいたクセルクセス王は早々にギリシア本土をあとにしてペルシアに撤退します。彼はペルシアの将軍マルドニオス(第一次ペルシア戦争の前に、ギリシア本土侵攻に失敗したマルドニオス)にあとを託します。ギリシア北部のテッサリアで冬を越したマルドニオスとその軍隊は翌BC479年、南下してアテナイを再度目指しました。両方の陸軍はプラタイアで戦いに突入し、スパルタの将軍パウサニアスの指揮により、またしてもギリシア軍は勝利を得ます。この同じ日にギリシア連合の海軍は、小アジアまで進出し、ミレトスの近くミュカレで上陸してペルシア陸軍を破りました。この時の司令官はスパルタ王レオテュキデスでした。この戦いでミレトス軍はペルシア軍の配下にあったのですが、ペルシアの将軍はミレトス軍の裏切りを恐れてミレトス人たちにミュカレ山頂に通ずる道の警備を命じました。
ミレトス人がそのあたりの地理に通じているというのがその口実であったが、実は彼らを本陣から離しておきたかったからである。
ヘロドトス著「歴史」巻9、99 から
さて戦いがペルシア側の敗北に終り、ペルシア兵たちがミュカレ山頂に逃げようと集まってきた時に、このミレトス人部隊は
彼らは命ぜられていたこととは全くうらはらの行動に出て、逃走するペルシア軍を予定した道とは別の、敵(ギリシア側)部隊の方へ通ずる道に案内し、最後には彼ら自身がペルシア軍にとっては最も苛酷な敵となってペルシア兵を殺戮したのであった。
ヘロドトス著「歴史」巻9、104 から
こうしてミレトスを含むイオニアはペルシアの支配から脱しました。