エーゲ海のある都市の物語:ミュティレネ(20):ミュティレネの反乱(3)

反乱勃発の翌年BC 427年の夏、スパルタはアルキダス率いる40隻の艦隊をミュティレネへと送り、それと並行してアッティカ*1に侵攻し、その地を荒らし回りました。しかしこのミュティレネへ向う艦隊は、途中の航路で難渋してしまい、時機を逸してしまいました。というのは、その間にミュティレネでは籠城のため食糧の蓄えが尽きつつあり、アテナイへの降伏へと事態が動いたからです。

 その間、ミュティレーネーで籠城中の市民らは、待てどもペロポネーソスからの船隊は遅々として到着せず、今は糧食も尽きはてて、ついに次のごとき事件がきっかけとなって余儀なくアテーナイ勢に降伏した。サライトス自身、まだ船隊が到着しようとは予期していなかったので、アテーナイ勢にむかって撃ってでようと考えて、それまで軽装兵部隊を構成していた下層市民たちに重装兵の武具を与えた。ところが、かれらはいったん武器をうけとると、もはや指揮者たちの命令には耳を借そうとはせず、自分たちの集会を開いて、富裕市民は私蔵している穀物を一般に供して全市民に公平に分配せよ、さもなくば自分たちはアテーナイ側の軍門に降りポリスを開け渡す、という要求を為政者たちにつきつけた。
 為政者たちは大勢の阻止すべくもないことを悟り、また、若しアテーナイとの和約に自分たちだけが除外されれば危険な事態を招くのではないか、と恐れ、ポリス全体の態度をまとめて、パケースの陣に降伏を申し入れた。その条件は、ミュティレーネー人の処置については無条件にアテーナイ本国の意向に服すること、市民は軍勢をポリス内に迎え入れること、今回の事件の釈明をおこなうべく、ミュティレーネー人の使節をアテーナイ本国へ派遣すること、使節が帰還するまでの期間、パケースはいかなるミュティレーネー人にたいしても、逮捕、奴隷化、処刑などの処置をとらないこと。このような一時協約が成立した・・・・。


トゥキュディデス「戦史 巻3・27〜28」より

戦史〈中〉 (岩波文庫)

戦史〈中〉 (岩波文庫)


まさに「食い物のうらみは恐ろしい」です。食糧が不足していても富裕市民(あるいは貴族といってもよいかもしれません)が保管している食糧があったのでしょう。それが原因となって一種の階級闘争が起きたようです。
アルキダスはミコノス島でミュティレネ陥落の事実を知り、真実を確かめるために艦隊をエムバトンまで進ませたものの、ミュティレネ襲撃やイオニアの諸都市の攻撃といった案を容れることなくそこで撤退を決めてしまいました。このアルキダスという将は、よく言えば慎重、悪く言えば臆病な将軍なのでした。アルキダスの接近を他のアテナイの船舶から知らされたパケスは、アテナイ艦隊を出撃させましたが、アルキダスはなんとか追撃を振り切りました。
パケスはミュティレネに戻ってくると、市内に匿われていたスパルタ人サライトスと、パケスが今回の反乱の責任者と判断したミュティレネ人多数をアテナイに送りました。


スパルタ人サライトスは即刻処刑されてしまいました。その他のミュティレネ人の処遇については議論がありました。最初アテナイの民会はミュティレネの男子全員を処刑し、女子供は奴隷に売ることを決議して、パケスにその決議を知らせるために三段櫂船をミュティレネに送りました。今回の反乱ではミュティレネがアテナイと対等な立場にありながら離反したことが、アテナイ人民衆の怒りをかきたてたのでした。さらに、ペロポネソス艦隊がよりによって(デロス同盟の中心である)イオニア海域に姿を現したということが、さらにアテナイ人の怒りを強めました。ミュティレネの貴族派を押えて開城にもっていったミュティレネの下層市民にとってはとんでもないアテナイの決議でした。しかし、その翌日、アテナイ人はこの決議の苛烈さを後悔して再び民会を召集しました。その結果、僅差ではあったのですが、前日の決議を取消し、反乱の責任者のみの処刑という、より穏健な処置を決めたのでした。

そこでかれらはただちに、別仕立ての三重櫓船一艘を急遽出発させて、先発の船が先に到着してポリスが殲滅されてしまうのを、未然にくい止めようとした。先の処刑令状を携えた船が出航してから、まだ一昼夜の時が経つか経たぬかであった。駐アテーナイのミュティレーネー使節らは、乗組員のためにぶどう酒と碾割(ひきわり)大麦の食事を用意したうえ、間に合えば多大の褒賞を与えることを約束したので、船足はいちじるしく早められ(中略)先の船の到着がわずかに先んじてパケースが最初の決議文を読みくだし、判決の執行にうつろうとする矢先に次の船が第一船の澪(みお)をおって到着し、処刑を中止させることができた。かくもわずかの差で、ミュティレーネーは危機を脱しえたのである。


トゥキュディデス「戦史 巻3・49」より

しかしパケスが送った反乱の責任者たちは処刑され、ミュティレネの城壁は壊され、軍船は没収されました。そしてメテュムナ領を除くレスボスの土地の所有権は奪われ、アテナイ人の植民地主に割当てられることになりました。ミュティレネもアテナイの隷属国になってしまったのです。

*1:アテナイを中心とする地方