キクラデス諸島の歴史:3 ローマ帝国とビザンティン帝国。3.2 ビザンティン時代

これは英語版Wikipediaの「History of the Cyclades」の拙訳です。

3.2 ビザンティン時代
3.2.1 行政組織
 ローマ帝国が分裂したとき、キクラデス諸島の支配権はビザンチン帝国に渡され、13世紀まで保持された。
 当初、行政組織は小さな属州に基づいていた。ユスティニアヌス1世の治世にキクラデス諸島とキプロス島とカリアは、第2モエシア(現在のブルガリア北部)と小スキュティア(ドブロジャ)とともにオデソス(現在のヴェルナ)に設置されたクアエストゥラ・エクセルキトゥス*1の権威下に集められた。少しずつテマが設定された。それは7世紀の初めヘラクレオスの治世に始まった。10世紀にエーゲ海のテマが確立し、そこにキクラデス諸島とスポラデス諸島、キオス島、レスボス島、レムノス島が含まれた。実際、エーゲ島テマは陸軍ではなく船乗りを帝国海軍に提供した。その後、島々であったところの小さな孤立した実体への中央政府の支配力は徐々に減少していったようにみえる。そして防衛と徴税はますます困難になった。12世紀初めにそれらは不可能になり、そのためコンスタンティノープルはそれらの維持をあきらめた。


3.2.2 島々の間での紛争と移住
 727年、島々はイサウリア朝の皇帝レオンに反抗した。反乱の頭目となったコスマは、皇帝と宣言されたが、コンスタンティノープルの包囲中に死亡した。レオンは、ギリシャの火を使う艦隊を送り、キクラデス諸島の権威を残酷に再確立した[86]。
 769年、島はスラブ人によって破壊された。
 9世紀の初め、829年からクレタを支配したサラセン人はキクラデスを脅かし、1世紀以上にわたり襲撃した。ナクソスは彼らに貢納を払わなければならなかった[88]。したがって、島々の人口はは部分的に減少した。「レスボスの聖テオトティストスの生涯」によると、パロスは9世紀に荒廃し、そこでは猟師にしか出会えなかったという。837年のレズボス襲撃の間に反撃されたクレタのサラセン人海賊は、復路でパロス島に立ち寄り、パナギア・エカトントピリアニ教会を略奪しようとした。レオン6世賢帝に仕えたニケタスはその被害を記録した[87]。 904年、アンドロス、ナクソスと、他のキクラデス諸島は、略奪したばかりのテサロニキから帰還するアラブ艦隊に略奪された。
 村々が海岸を捨ててより高い山の中へ移ったのはビザンティン帝国のこの時期であった。パロス島のパロイキアよりもむしろレフケスへ、あるいはナクソス島のトラゲア高原へと移った[89]。この動きは拠点における危険のためであったが、良い効果もあった。最も大きな島々では内陸の平野が肥沃で新しい開発に適していた。こうして、アンドロス島でメッサリア平原を好んでパライオポリが放棄され、養蚕が導入されたのは11世紀だった。この養蚕は19世紀までこの島の富を保証した[90]。

*1:ビザンティンの独特の行政区