トルコのもう一つの顔

トルコのもう一つの顔 (中公新書)

トルコのもう一つの顔 (中公新書)

これは新聞か雑誌の書評で知って、買った本です。それは書評で次のエピソードを語っていたからでした。
トルコに滞在し、少数民族の言語を調査する著者は、単一民族国家を建前とするトルコ政府の警察から危険人物とみなされ、トルコ東部のある村に滞在中に拘置場に入れられてしまう。しかも食事も出ない。その時に初老の男の歌う声がする。その地方の少数民族の歌(ディルスム語)だ。彼らは役人や警官の前では絶対にディルスム語を使わない。逮捕されるからだ。以下は、本からの引用です。

歌声が近づく。誰だろう。
「ツァイ・ベル(なぜ泣)・・・
歌はそこで途切れてしまった。咳払いの音も聞こえない。すぐ近くにいたようだったのに・・・錯覚だったのだろうか。反響のせいで遠くの物音が近くに聞こえたりすることはよくある。中途でそれも「なぜ泣」と単語の半ばで歌が消えてしまったので、ひどく不満足な気分になった。
深く考えもせず三行目から私が歌い継いだ。
「ツァイ・ベルベナイ? ツァイ・ジベナイ?(なぜ泣くのだ? なぜすすり泣くのだ?)
カミ・ドー・ト・ロ?(誰がお前をぶったのだ)
四行目に入ったところでしゃがれた男の歌声が重なった。やはりすぐ近くにいたのだ。でも一体誰だろう。どうして歌を中断したのだろう。なぜか続けて二番を歌う気になれず、四行目の終わりを長く引き延ばす。
「ムレ・ネ・ヴァーナイ?(俺に「なぜ」言わないのだ)
男の声は最後の音節を短く歌い切り、私の声だけが響き残った。

このあと男の姿は見えないままですが、その彼から食べ物が与えられます。それを著者はこう表現します。

私の声が終わったときに、新聞紙に包んだ「マンナ」が天から降って来た。マンナというのは、旧約聖書の「出エジプト記」第16章の14〜16節に出て来る、イスラエルの民が天から賜ったという奇蹟の食物のことである。

つまり、歌の主は、著者を確かめるために、そして助けるために歌をわざと途中で切ったのでした。言葉を交わせば協力者だとばれてしまう。そんななかでの術策が歌だったのです。この話が非常に印象に残って買った本ですが、その他の部分も非常に興味深いものでした。それは、自らの知的好奇心に従って調査を続け、困難を克服していく、そして、現地の人々との交流を大切にする、この著者の生き方がとてもすばらしいものに思えるからです。
私の好きな本のひとつです。
(追記:これは1985年の話です。今のトルコがどういう状況なのか私は知りません。)