よみがえるウィーナー

少し前のことであるがid:elmikaminoさんの初夢を読んで思い出した文章がある。それを紹介したい。それは

人間機械論―人間の人間的な利用

人間機械論―人間の人間的な利用

(原題:人間の人間的な利用 1954年)の中でウィーナーが引用している文章である。ウィーナーが引用した文章をまたここで引用するわけで、しかも間に2回翻訳(仏→英→日)が入っているので情報の劣化があるかもしれない。

われわれは今や偉大な「世界国家」の危険を冒しつつある。そこではよく考えた上で意識的に選んだ原始的な不公平が大衆の統計的幸福の唯一の可能な条件であるかもしれない。それは頭脳明晰な人たちにとっては地獄よりひどい世界である。おそらく、今日サイバネティックスを創造しつつある集団が、科学のあらゆる分野からはせ参じた技術家のお歴々に、まじめな人類学者を何人かと、おそらくさらに、世界の問題に好奇心を持つ哲学者を一人加えることは悪い考えではあるまい。

これはパリの雑誌「ル・モンド」の1948年(!!)12月28日号に、ドミニコ教団の修道僧デュパール神父がウィーナーの主著「サイバネティックス」について書いた評論であるとのことである。私がこの文章を思い出したのは、新しいテクノロジーの社会的な脅威が問題になっていること、それが情報技術であること(サイバネティックスは今日ではほとんど死語であるが、情報科学と同義と考えてたぶん大丈夫だろう。)、そこに哲学者が参加するという話であること、だからだろう。私は、これを読んでいて、1948年の文章であるのに、まったく今日的であると感じた。実際にウィーナーが引用している文章はもっと長い。先に引用した文章より前にはこのような文章が引用されている。

こうして開かれた最も魅惑的な見通しの一つは、人間に関する事柄、特に社会に関する事柄のうち例えば世論の発展という人間現象のように或る一定の統計的規則性を示すように思われるものについての、合理的な行動の見通しである。次のような機械、すなわちあれこれの型の情報、例えば生産と市場についての情報を集め、人間の平均的な心理と所定の時に測定できる諸種の量との関数として、事態がどのように発展する見込みが最も大きいかを決定するような機械を想像することはできないであろうか。さらに次のような国家装置、すなわち地球上に多くの国家があるという政治体制の下でか、またはこの惑星上に一つの人類政府があるという一見もっとずっと単純な政治体制の下で、政治上の決定の全システムを網羅するような装置をさえ、想像することはできないであろうか。今日では、われわれのこういう想像を妨げるものは何もない。われわれはこんな夢を見ることができる−−統治機械(machine a governer 本来は操舵機の意)が、良かれ悪しかれ、脳が慣習的な政治機構を扱う時の脳の現在の明らかな不完全さをおぎなうようになる時代が来るという夢を。

          (中略)

統治の対象をなすような人間過程は、フォン・ノイマンが数学的に研究した意味でのゲームとして扱えるからである(CUSCUS注:本当か?)。人間のこれらのゲームは不完全なルールしか持たないが、ひじょうに多数の人が参加しデータがきわめて複雑なゲームもある。統治機械では、国家は各段階において最大の情報をもつ競技者として定義され、国家はすべての部分的な決定の唯一つの最高の調整機である。これは巨大な特権であり、もしそれが科学的に得られるなら、国家は、あらゆる条件の下で、人間ゲームに参加する自己以外のどんな競技者をも打ち負かすことができる。そのさい国家は他の競技者たちに次の二つの道のいずれか一方を選ぶべくことを示す。すなわち即座の破滅か計画された協力かである。これは外部からの暴力なしにゲーム自身が生み出す結果である。最善の世界の愛好者たちの夢はざっとこんなものである。

その後には、統治機械の実現を阻む技術的な困難を挙げる文章がつづく。その中にはこんなものもある

多量の情報を蒐集して迅速に処理しなければならないことからくる非常に難しい問題の他に・・・

しかし、この問題は現代ではクリアされつつあるのではないか? むろん、統治機械の実現には他にも問題は多々あるのだが。例えば、このようなことも言っている。

そんなことよりも多分もっとさし迫ったことがある。その非常によい例は1948年の大統領選挙におけるギャラップ世論調査で起こったことで与えられると思われる。これらのことは、予測を左右する要素の複雑さをいっそう高めるばかりか、おそらく人間の事態を機械的に操作することを根本的に無効にする傾向のものである。

 その後すこし文章があってから冒頭に引用した文章が続くのであるが、1948年の文章が今日的に感じられるのは面白い。