インド文明の曙(ヴェーダとウパニシャッド)

この本も古い本で、私が捨てられなくなった本です。何度も引越ししているので、その際、捨てた本はいっぱいあるのですが、この本は、それらの危機を生き延びてきたのでした。発行年を調べてみたら1980年で、今から27年前です。もう覚えていないのですが、これを買ったのはニーチェの影響だと思います。岩波文庫リグ・ヴェーダも同じ頃、買ったのではないか、と思います。私にとってこの本の価値は、ブラーフマナ文献という日本ではマイナーな諸文献の紹介がなされている点です。古代インドの膨大な量の聖典集であるヴェーダは古い順から

というふうに分類されているのですが、サンヒターの代表的なものリグ・ヴェーダ・サンヒターは有名で、前述のように岩波文庫に訳が出ています。一方ウパニシャッドは古代インド哲学ということでこれもよく訳が出ています。しかし、その間にはさまれたブラーフマナとアーラニアカの紹介はめったに目にしたことがありません。この本ではブラーフマナ文献の内容紹介が(わずかですが)なされています。

煩瑣な祭式神学に終始するブラーフマナ文献に、哲学的思索の高揚は望まれない

と著者は説明しています。ですから(少なくとも日本では)人気がないのです。でも、私はこのような珍しいものは、珍しいというだけで好きです。私はブラーフマナについてのみ語り過ぎたようです。
この本の最後に紹介している話は私にとって印象深かったのですが、今、読んで見るとこれもブラーフマナでした。ヴェーダがいかに膨大な量であり、その学習が困難であったか、を示す話です。

バラドヴァージャ仙は実に三生を通じてヴェーダを学習せり。彼が枯痩老衰して横たわれるとき、インドラ天は彼に近づきていわく、「バラドヴァージャよ、われもし汝に第四の生を与えんに、汝はその生において、何をかなさんと欲すや」と。バラドヴァージャ答えていわく、「さらにヴェーダを学習せんと欲するのみ」と。インドラは彼に何ものとも分明せざる三個の山形を示し、そのおのおのより一握りずつを取れり。しかして、「バラドヴァージャよ」と呼びかけていわく、「これら三個の山形はすなわちヴェーダなり。ヴェーダは実に無限なり。この掌の中のものは、実に汝が三生を通じて学習せるところなり。それに反し残余の部分こそ、汝のいまだ学習せざるところなれ」と。