お経の話

お経の話 (岩波新書)

お経の話 (岩波新書)

だいたい日本では僧侶はお経を漢語音読みで読んでしまうので、そこに何が書いてあるのか分かりません。しかし、本当は意味があるわけで、それについてのよい手引きになるのが本書です。
私の興味と不安の1つは「大乗非仏説」にあります。日本の仏教のほとんどの宗派は大乗のお経を崇めているわけですがこれは本当のブッダの説法ではない(非仏説)というものです。このような主張に対し本書は、部派仏教(いわゆる小乗)も大乗も現存する経典の古さから言えばどちらも5世紀までしかさかのぼれないので、大乗が後から出現したということは言えない、それに、ブッダの在世当時ですら、教理の統制は強制されていなかったのでいろいろな傾向の経典が並存していてもおかしくない、という論拠で「大乗非仏説」を排しています。しかしその結論が私には何やら曖昧に見えます。
もうひとつ興味をひいた記述があります。

 大乗経典を読んで正直に率直に印象を述べると”つまらない”とか”冗長”とか”退屈”とか、ときには”ばかげている”とか感じることがあるのは事実である。

やはり、と思いました。なかなかこういうことを正直に書いた本はないように思います。そしてこの文章は以下のようにつづきます。

これは多くの宗教の聖典に共通することである。ところが聖典にもとづいて作られた論書は哲学書として、思想の書として読んでも、もとの聖典以上に教えられることが多い。

 われわれはふつうこれらの仏教哲学者の解釈によって大乗経典の思想を理解するのであるが、彼らはつねに経典を絶対的権威として引用する。彼らの思想体系はたしかにすばらしいものであるが、内容が単純で文章が冗長な経典に対する彼らの絶対信頼は、ときにはわれわれの理解を越える。宗教文学とはおよそそうしたものかも知れない。

こういう過去の仏教哲学者たちの存在に興味を覚えます。そしてきっと私にはなかなか理解出来ないだろうなあ、とも思います。