ニーチェの顔

ニーチェの顔 (1976年) (岩波新書)

ニーチェの顔 (1976年) (岩波新書)

これまた古い本で恐縮なのですが、私の非常に好きな本のひとつです。ニーチェを題材にしたエッセイ集といった感じの本です。最初の章は「Ⅰ ニーチェの顔」ですが、以下の文章が読めるだけでもすばらしいと思っています。

・・・さらに注目すべきはニーチェの声のことだが、この声の特色を強調しているもう一つの証言をここに挙げておこう。これはニーチェバーゼル大学の教授時代の講義ぶりを、ルードウィヒ・フォン・シェフラー(Ludwig von Scheffler)がつたえたもので、このシェフラーという人は・・・当時はバーゼル大学の一学生としてニーチェの古典文献学の講義を聞いていたのである。教室に出てみて、シェフラーは、この大学も終えないうちにバーゼル大学に迎えられた評判の秀才教授が、きわめて謙遜、むしろ卑下にちかいのにおどろく。彼はニーチェの著作の挑戦的な調子から推して、それとは反対のものを期待していたのだった。


そして引用が始まりますが、長いのでニーチェが教壇に向かう態度を描写する前半は省略します。後半はニーチェの目と声について記しています。

「・・・ニーチェ教授は眼鏡をはずした。私ははじめて彼の眼を見た。なみはずれた近視の、無表情の、なんとも異常で、ひとを訝らせる眼--というのは、暗黒の瞳孔が溢れるようにすでにきわめて大きく見えているのに、さらにそれが白眼の部分をつらぬいて瞼の方へつりあがっている。これは横顔で見ると、目つきに何かいらだたしい、残忍めいたものを与えた。ニーチェのいくつかの写真が与えるあやまった印象がこれである! 実は、このおだやかな善意の人の眼はけっしてそうした感じを与えることはなかったのだ。ライン河がオルガンの最高音を発してどよもし流れていた。窓は閉めてあったが、教授の声がそのために掻き消されるのではないかと、私は心配になった。しかし、そのとき私はわが心をひどくとまどわせるような経験をした。ニーチェはひとつの声を持っていた! 雄弁家の朗々たる調子ではない。また多くの大学教授たちのパトスを特徴付けるところの、あの音節をひとつずつ区切って発音するものの、実際にはあまり効果のあがらぬ抑揚でもなかった。ニーチェの唇を離れてくる声は、ただひとつのものを持っていた。それは魂から出て来たものだった! 従ってそれは聞く者にすぐ伝わって共感を強いるのであった。目で読むだけなら、きわめて激しい抵抗をひきおこしたかもしれぬ諸観念を、安々と近づけ、有無をいわせない威力があった。今日もなお、それは私の心中に作用しつづけている。あの声の魅力は! それは和らげ浄化しつつ、きわめて異様にひびく彼の発言をも蔽い包んでいる。彼のことばの暗示的なメロディを経験しなかった者は、ニーチェをただの半分しか知っていない。」


ここまで引用して著者は

声をきかなくてはニーチェを半分しか理解できないといわれても、声の録音が残っていない以上、まことにせんすべない話である。

という感想を記しています。私も同感です。


その他の章の題名は以下のとおりです。

Ⅱ 犀・孤独・ニーチェ
Ⅲ ニーチェエピクロス(1)
Ⅳ ニーチェエピクロス(2)
Ⅴ ニーチェにおける脱ヨーロッパの思想
Ⅵ ツァラトゥストラゾロアスター
Ⅶ ニーチェにおけるヘーゲル
Ⅷ 虫歯とデカダンストーマス・マンニーチェ
Ⅸ イスカの喉もと(ニーチェとその時代)

それぞれの章に思い出があります。例えば「Ⅱ 犀・孤独・ニーチェ」は私が「ブッダの言葉 スッタニパータ(岩波文庫)」を買うきっかけになった章です。ⅢとⅣはニーチェの「英雄的かつ牧歌的」という言葉を覚えた章です。「Ⅸ イスカの喉もと(ニーチェとその時代)」はニーチェの時代と、そのころドイツを訪れた明治の日本人たちの視線(ビスマルクのドイツにあこがれる視線)とニーチェの反時代的な視線を対比させて興味深いです。


もう紙が黒ずんできましたが、それでも捨てられない本です。