「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(2)

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前回は、時間の非可逆性の理由としてウィーナーが「分子の数が膨大なため位置・速度・質量の正確なデータを『私達が』知ることが出来ないこと」を挙げていたことに対して、私が疑問を呈しました。


仮に「全知」の神が存在するとして、その神の目からみたら時間は可逆的に見えるのでしょうか? 時間が非可逆であるのは我々が全知ではないからなのでしょうか? 気象学を例にすると考察が大変なので、もっと簡単な例、例えばコップに入っている水にインクをたらす、という例を考えてみます。その場合、インクは水の中をどんどん拡がっていき、色は薄くなっていきます。この逆、つまり、水と混じったインクが自然にまとまって濃いインクの塊が水面に現れる、ということは「けっして」起きません。これは、水とインクのそれぞれの分子の質量・位置・速度などの情報を全て知っているとしても逆の現象は起きません。ウィーナーが言っているのは、たぶんそういうことではないのでしょう。


水とインクのそれぞれの分子の質量・位置・速度などの情報を全て知っていたら、逆回しのフィルムを見ても、つまり、水と混じったインクが自然にまとまって濃いインクの塊が水面に現れる、という現象を見ても(神の目には)奇妙には見えない、つまり理解可能である、ということでしょう。確かに、インクが水の中を拡散していく状態のある時点で、全ての分子の速度を逆にすれば、(厳密に言えば量子力学的な不確定性を無視すれば、ということですが、この場合、それを無視出来そうです)、インクの分子はだんだん一箇所に集まってくるでしょう。そして、そのことは、ニュートン力学に反した現象ではないでしょうし、そのことを理解している神には、何ら奇妙な現象ではないでしょう。


とは言え、現実にそんな現象が起きないのも事実です。これはどう考えたらよいのでしょうか? ここで思い当たるのは、インクが充分水と混ざった状態で、水とインクの分子の位置・速度を、上のように、というのは将来、インクの分子が一箇所に固まるように定めるということが我々には出来ない、ということです。インクが充分水と混ざった状態、というのは1つの状態を指しているのではなく、個々の分子の位置と速度がさまざまであるような状態を含んでおり、その中のごく一部の状態だけが、将来、インクの分子が一箇所に固まるような状態である、ということでしょう。今、私は「ごく一部」と言いましたが、それはこの語の日常の用法で意味するような「ごく一部」、たとえば0.1%とか0.01%とか、ではなく、もっと実質的にほとんど完全に0に近い割合を意味します。人間の技術で、そのようなごくまれな状態に水とインクの分子の位置を定め、速度を与えることは不可能であるので、実質的に現象は非可逆に進行する、と考えることが出来そうです。
そうは言っても正直なところ私の中でまだモヤモヤが残っています。これに関連していそうな記述が第1章の中にあります。

物理実験を行うとき、私は考える物理系を過去から現在に持ち来すのであるが、その際ある種の量を固定し、他のある種の量は既知の統計分布をもつと考えられる十分な根拠があるようにする。そしてそれからある時間後に生じた結果の統計分布を観察するのである。この過程は逆行させることはできない。

しかしこの記述は私にはよく分かりません。


さて、次には

 時間の方向性については、天体物理学における時間に関連して、きわめて興味ある天文学上の問題が生ずる。

と話題を変え、天体が光を発することも非可逆な現象であることに注意するように述べていますが、このあたりの記述は本筋とは関係ない上に難解なので飛ばします。ただ、その段落の結論は以下のようになっています。

’われわれが通信しあえる世界の中では、時の方向はどこでも同じなのである。’

このように述べてから

 ニュートン流の天文学と気象学との対照にもどろう。

と記しています。しかし、話はまた変な方向に進みます。それは、ジョージ=ダーウィン潮汐進化説の検討です。これはどうも次のことを述べたいための議論のようです。

 このように重力の天文学でさえ運動を減衰させる摩擦過程を含んでおり、厳密にニュートンの図式に合うような科学は一つもない。

摩擦の現象は、運動エネルギーが熱エネルギーに変わる過程であるので、当然、熱力学の範疇であり、それは熱力学の第二法則に従い、従って、非可逆な現象です。


「サイバネティックス」という本の「第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間」(3)」に続きます。