エムペードクレス ヘルダーリン

18世紀ドイツの文芸社会が古代ギリシアを見るまなざしは、何か色眼鏡がかかったようで、変に理想化して眺めているようです。このヘルダーリンによる「エムペードクレス」もそうで、ここではエムペードクレスは神的人物として描かれています。ヘルダーリンはこれを「悲劇」と名づけていますが、ギリシア悲劇とはまったく別のものです。この「エンペードクレス」はヘルダーリンが何回か完成を試み結局未完に終ったものです。この本は「第一段階 フランクフルト案」「第二段階 エムペードクレスの死 第一稿」「第二段階 エムペードクレスの死 第二稿」「第三段階 エートナ山上のエムペードクレス」を収めています。和訳は少し美文調です(旧漢字旧かなづかい)。私はこの本のあるフレーズについては気に入り、別の箇所には反発を覚えます。
気に入っているフレーズにはこんなのがあります。

おお 美しい星よ
おまへもきつと 堕ちねばならぬ それも もう間のないこと


「エムペードクレス 第一稿」より


これだけでは何のことだか分かりませんから、少し背景説明をします。古代ギリシア時代のシシリア島にあるアグリゲントという町が舞台です。パンテーアとレーアという2人の女性が会話しています。パンテーアは重い病気をエムペードクレスに治してもらい、それからずっとエムペードクレスを崇拝しています。彼女の目から見るとエムペードクレスは半ば神のようなものです。ところが、パンテーアの父クリーティアスをはじめアグリゲント市民はエムペードクレスの力を恐れ、かつ彼を憎んでいます。そういう背景での2人の会話です。

パンテーア
・・・・また、ひどい荒天の日でも、ひとたびあの方の眸が空に注がれると、おのづから、雲は分れ、明るい日射しさへ洩れはじめるとか。しかし、人の噂はともかくも、じかにあの方を御覧にならないといけません。ほんの一目なりと。そしたら、すぐに立ち去ることです。私、あの方を避けることにしてをりますの。一切を変へてしまふ畏ろしい本性が、あの方のお身のうちに、ひそんでゐるからです。

レーア
では どうして世の人らと暮しあつてゆくのでせうか その方が
私はさつぱり解せませぬ
老痴らふ身を想ひ ひとり歎く 味気ない日々が
その方にもあるのでせうか 私どもとおなじやうに
やはり 人並みの悩みもあるわけでせうか

パンテーア
ああ さきの日 かしこの樹の下蔭に
佇んでをられたをりは たしか
深い悩みを お持ちのようでした----神ともまがふあの方が
ただならぬ憧れに駆られ 悲しげに探し求めながら
いかにも すべてを見失つてしまつたひとのやうに
・・・・・・・・・
あの王者のごとき尊顔に 自卑のいろの漂ふを見ては
この私の負けじ心も たちまち 挫けて----おお 美しい星よ
おまへもきつと 堕ちねばならぬ それも もう間のないこと

そんな予感がしたのでした。

では、反発を覚える箇所はといいますと、これは内容全体に関わるものです。エンペードクレスの栄光も苦悩も、具体性が全くないのです。どのような業績が彼に栄光を与え、どのような理由で彼が苦悩しているのか、読んでいてさっぱり分かりません。民衆が彼を称える時も罵る時も、エンペードクレスが自己憐憫に浸る時も誇りらかになる時も、話す内容が抽象的に過ぎるのです。何か、ひとり芝居のような印象がするところに反発を覚えます。