プロティノス 「エネアデス」

ミーハーな気持ちでプロティノスを借りてきて読んでいるけれど、難しくて歯が立たない。

 さて、それでは、部分にわかれた一にとっては、そのどれにとっても、その有と一とは同じではないのだとしても、しかし部分にわかたれない全体としての存在者と存在にとっては、有と存在とははたして一と同じものなのだろうか。つまりそうすれば、そのような存在を見出した者は、またすでに一をも見出したことになり、有そのものが即一そのものだということにもなる。一例をあげると、いまその有が知性だとする。そうすれば知性は、知性であると共にまた一でもあるわけで、それが第一義的な存在だとすれば、また第一義的な一でもあることになり、その他のものに対しては、存在を分有させるとともに、また同じ仕方で同じ程度に、一をも共有させるものとなるだろう。


「善なるもの一なるもの」より

・・・ああ、全然わからない。


でも、こんなところには惹かれる。

 われわれによって追い求められているものが、大きさにおける美とは別のものであることは、また、学問における美や営みの美や一般に魂の内の美が、明示している。そして、むしろここにこそ、真実の意味での美が存在するのである。つまり、君がだれかの内部に知見を認めて感嘆し、容貌に関してではなく――なぜなら、これは醜悪であることもありうるのだから――すべての外形を無視して、その人の内面の美を追い求めるばあいが、そうなのである。だが、そのような人を美しいと言いうるほどに、それが君を動かさないのであれば、君が君自身の内面を眺めて美しいと感じて悦ぶこともできないであろう。したがって、君自身がそのような状態にありながら、かのものを探し求めても無駄であろう。なぜなら君は、醜悪な清らかでないものを通じて探し求めているからである。
 だからこそまた、このようなことがらについての説明も、万人向けのものではないわけである。しかし君も君自身を美しいと見たことがあるならば、それを想起せよ。


「英知的な美について」より


プロティノスが生きていたのは 205?〜270年 ということで、塩野七生さんの「ローマ人の物語」ではほぼ「迷走する帝国」でカバーしている時代に収まる。政情不安な時代に生きていたわけだ。