般若心経 金剛般若経

般若心経はともかく金剛般若経はよく知らないので、ということで買ったような気がします。般若心経は短いので、いろいろな人が勝手な解釈をつけて、理解出来たような気にさせますが・・・・そんなに短くない金剛般若経は・・・・わからん。


金剛般若経はお釈迦様と、その弟子のひとりで、「空(くう)」を理解すること第一人者(解空第一)といわれたスブーティ(漢訳では「須菩提(しゅぼだい)」)との対話を記したものです。たとえば、こんな内容が書かれています。下の引用で「師」というのはお釈迦様のことです。

 師は言われた――「スブーティよ、もしも、ある求道者が『わたしは国土の建設をなしとげるだろう』と、このように言ったとすれば、かれは間違ったことを言ったことになるのだ。それはなぜかというと、スブーティよ、如来は<国土の建設、国土の建設というのは、建設でないことだ>と説かれているからだ。それだからこそ、<国土の建設>と言われるのだ。


えっ? 何で「国土の建設、国土の建設」と二度言うのだろう? で何でそれが「建設ではない」と言われ、そしてまた「それだからこそ」って・・・・この「それだからこそ」は全然「それだからこそ」じゃないし・・・・・。


わけのわからんことを言うことではスブーティも負けていません。

 スブーティは答えた――「師よ、それは大きいですとも、幸ある人よ、その体は大きいですとも。それはなぜかというと、師よ、如来は『体、体、というがそんなものはない』と仰せられたからです。それだからこそ<体>と言われるのです。師よ、それは有でもなく、また、無でもないのです。それだからこそ<体>と言われるのです。」


全編、こんな調子で、理解出来ません。読み通すには忍耐が要ります。

  • (以下、独白:・・・・と、いうことは無理やり読み通してみれば、新しい世界ひらけるかも・・・それほど長くもないし・・・)


この金剛般若経をおそらく私は全然、理解出来ていません。が、ひとつだけ気に入った個所。

スブーティよ、この法門は『智慧の完成』と名づけられる。そのように記憶するがよい。それはなぜかというと、スプーティよ、「如来によって説かれた『智慧の完成』は、智慧の完成ではない」と如来によって説かれているからだ。それだからこそ、『智慧の完成』と言われるのだ。


完成してしまった智慧は本当の智慧じゃなんですね、きっと。未完だからこそ、最強の智慧なんでしょうね。なんだかゲーデル不完全性定理のような・・・・。