思い出す事など 夏目漱石 (3)

「思い出す事など」は、ここで全文読むことが出来ます。

第13節

  • その日(8月24日)は東京から長与病院の杉本さんという医者が漱石の診察に来ていました。

診察の結果として意外にさほどわるくないという報告を得た時、平生森成さんから病気の質(たち)がおもしろくないと聞いていた雪鳥君は、喜びのあまりすぐ社へ向けていいという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべき、診察後一時間の暮れ方に、突如として起こったのである。

  • ここでは漱石ではなく周りの人々から見た当時の状況が描かれています。それは私が荒筋を書くよりも、そのまま引用したほうがよっぽど簡潔でかつ必要な事が記されていることでしょう。

 余はそのときさっとほとばしる血潮を、驚いて余に寄り添おうとした妻の浴衣に、べっとりと吐きかけたそうである。雪鳥君が声をふるわしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと言ったそうである。社へ電報をかけるのに、手がわなないて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六筒までは覚えていますと答えた。

  • ところがこの間の記憶が漱石にはありません。

第14節

  • その後、漱石の意識が戻ってからの出来事です。漱石は意識が戻ったということすら気づいていません。その後、もう一度、気が遠くなります。

・・・時に突然電気燈が消えて気が遠くなった。
 カンフル、カンフルと言う杉本さんの声が聞こえた。(中略)
 傍(はた)がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られてていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟んで下(しも)のような話をした(その単語はことごとく独逸語であった)。
「弱い」
「ええ」
「だめだろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」

  • この会話を聞いていた漱石は「自分の生死に関するかように大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かされるのが苦痛になってきて」

 余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明瞭な調子で、私は子供などに会いたくはありませんと言った。

まあ、そんなこともあるでしょう。しかし、医者のドイツ語をこんな大変な時に聞き取れる漱石は、やっぱりすごいな。英語だけじゃないんだ。



第15節

  • 前にも引用しましたが、ここの述懐は重要です。

 強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕もとの金盥(かなだらい)い鮮血を認めた余とは、一分のすきもなく連続しているとのみ信じていた。そのあいだには一本の髪毛をはさむ余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ信じていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかり死んでいらしったのですと聞いた折りはまったく驚いた。

  • この経験について漱石はこう述べます。

実を言うとこの経験――第一経験と言いうるかが疑問である。普通の経験と経験のあいだにはさまって毫もその連結を妨げ得ないほど内容に乏しいこの――余はなんと言ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。

  • 私の死生観のうち「一部分は」ここに由来しています。つまり「自分にとって自分の死はない」というものです。ここには臨死体験も何も神秘的なものも宗教的なものも何もありません。近代科学が教えるような、唯物論的な死、です。古代ギリシアの哲学者エピクロスが言っていたように「われわれが有るかぎり、死はそこに有らぬし、また死が有るかぎり、われわれは有らぬ。それゆえ、死はわれわれにとって無である。」というものです。しかし、その考え方を納得出来るような強靭な精神を私は持ち合わせておりません。死んでも自分は存在する、そうでなければ耐えられない、という叫びが心の奥底から湧き出てきます。私はこのあたりの自分の気持ちをもう一歩踏み込んで書き記すことが出来たら、と思うのですが、正直、出来ません。

第16節

  • 杉本さんは用事があって東京に戻りました。代わりに看護婦を2名、修善寺漱石の元に送りました。漱石の周りの人々はほとんど回復を諦めているのに、漱石自身は何もしらずに心安らかにしていました。というのは、血を吐いたあとは、今までの苦しさが急に取れたのだそうです。しかし、実際にはその時が一番、危険な時期であったようです。

第17節

  • この節は次の文章から始まります。

 臆病者の特権として、余はかねてより妖怪に会う資格があると思っていた。

  • 私も子供の頃から何かにつけて臆病者なので、この気持ちはすごく分かります。漱石は次に「自白すれば・・・」といって、海外の心霊関係の本をかなり(もちろん原文で)読んだことを記しています。そして死という答のない問題についてあれこれと考えたことを書いています。しかし、心を安心させる結論は出てきません。この節の最後の文章には、私もすごく同意出来ます。

 余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像どおりに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越したことがなんの能力をも意味さなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失ったことが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と冥合できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人(ひと)に待つばかりである。

  • 正直なところ最後の「臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を他人(ひと)に待つばかりである。」の意味はよく分かっていないのですが・・・・。いずれにしても、この節も私にとっては重要な節です。