思い出す事など 夏目漱石 (2)

「思い出す事など」は、ここで全文読むことが出来ます。


第7節

  • ウォードというアメリカの社会学者が1883年に書いた「力学的社会学」という本を読んだ感想から始まります。この本がかつてロシア語に訳された途端、ロシア政府によって発禁にされた、という話を、中学生だか高校生の頃の私は、おもしろく思ったものでした。そして漱石が「力学的」という言葉に期待して読み進めたがなかなか力学的なところが出てこず、

今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて

  • も出てこなくてがっかりした、という話に、世間を知らない中学生だか高校生の頃の私は、はあ、世の中にはそんなこともあるのだなあ、気をつけねば、と思ったものでした。ここから話ががらりと変わります。その本の内容から、太陽系の形成に関する星雲説の話になり、人間の感覚を越えた自然界の話になっていきます。そしてこんな感慨に至ります。

三世(さんぜ)にわたる生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則によって無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、そのあいだにかすかな生を営む人間を考えてみると、われらのごときものの一喜一憂は無意味と言わんほどに勢力のないという事実に気付かずにはいられない。

  • また、このようなことも書いています。

学者の例証するところによると、一疋(ぴき)の大口魚(たら)が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。(中略)そのうちで生長するのはわずか数匹にすぎないのだから、自然は経済的に非常な濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な父母である。人間の生死も人間を本位とするわれらから言えば大事件に相違ないが、しばらく立場をかえて、自己が自然になりすました気分で観察したら、ただ至当の成行きで、そこに喜びそこに悲しむ理由は毫も存在していないだろう。

  • そしてその次に

 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。

  • と書いています。私は、ちゃんと「心細い」「つまらない」と書いている漱石の正直さが好きです。世の中の多くの本がこのような正直さを持ち合わせていないように私には思えます。上の文章は私にとって切実な意味を持つ文章です。


第8節

  • 大喀血した8月24日の二週間ほど前からの体調不良の様子が描かれています。


第9節

 忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向かいかけると、なんだか急に気が進まなくなったのでまた記憶を逆さまに向け直して、後もどりをした。

  • 漱石は24日の事件を書くのが恐いわけです。この躊躇が私にもその恐ろしさを感じさせます。こういうところが私がこの「思い出す事など」を何か恐ろしいもののように思ってしまう理由です。漱石はまた過去に戻って、東京から修善寺に向かう時の出来事や、修善寺にたまたま北白川宮がいて漱石になにか講話をしてもらいたいという話を人づてに聞いたが辞退したという話が書かれています。


第10節

  • まだ24日の話には突入しません。修善寺で療養中に大雨が降り、旅館の下女の話として、どこどこの家が流された、ということを聞いた話。そのうちに東京が洪水になっているということを新聞で知ったこと。漱石の子供たちはその頃、茅ヶ崎に滞在していました。東京にいる妻と茅ヶ崎にいる子供たちを心配しているうちに、妻から手紙がきたということが書かれています。


第11節

 妻の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。

  • 漱石は手紙を読んで、東京で自分に関係のある人が2人までもがこの大雨で大変な目にあったことを知ります。そのうち一人は漱石の門下生である森田草平氏で、その家は崖崩れでつぶれてしまったそうです。


第12節

  • この節はちょっと雰囲気が明るく、奇妙な泊り客の団体「裸連」のことが書かれています。その団体の振舞いに漱石はいちいちいらいらするのですが、自分のことを客観視して書いているのでちょっとおかしみがあります。長い雨がようやくやんで、東京への汽車が通るようになったころ、この裸連の人々は帰っていき(それまでは帰ろうにも鉄道が不通で帰れなかったわけでしょう)、代わりに漱石の妻や、長与病院の森成さんが修善寺にやってきました。

弘法様で花火の揚がった宵は、縁近く寝床をずらして、横になったまま、初秋の天を夜半近くまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを無意識に待っていた。

  • ようやく漱石は二十四日の事を叙述する覚悟が出来たようです。