イチェン・イツァのセノーテ

  • http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Cenote_in_chichen_itza.JPG

 それから彼らの治世が始まり、彼らの統治が始まった。人びとは彼らに仕え始めた。やがて(泉(セノーテ)に)投げこまなければならない人びとが到着した。彼らの言葉を神々に聞いてもらうため、いけにえが泉に投げこまれ始めた。彼らの言葉はもどってこなかった。泉の水面に、頭を南の方へ向けて出したのはカウィチ、フナク・ケエルであった。彼は自分の言葉を述べるために進み、その言葉は始まった。そこで彼らはフナク・ケエルを首長と宣した。彼らは首長たちの「玉座」に彼を坐らせた。彼をハラチ・ウィニク、つまり最高首長と宣した。・・・・・・その後そこ、チチェン・イツァにおいて大いなる災厄が始まった。・・・・・・・

八アハウ(1185〜1204年)
この時チチェン・イツァのハラチ・ウィニクと
イツァの民は
フナク・ケエルの虚言のために
彼らの家をもう一度見捨てた。
チチェン・イツァの殿チャク・シブ・チャクは
マヤパン・イチパのハラチ・ウィニク
フナク・ケエルのために、そうした。

当時マヤパンの玉座にあったのはフナク・ケエルで、彼は自らいけにえとなってチチェンの<聖なる泉>に身をおどらせ、しかも水底で直接受けたという神のお告げをもって生還し、そのためますます名声をほしいままにしたという常人ならざる人物であった。一方チチェン・イツァを治めていたのはチャク・シブ・チャクという名の男であった。一説によればチャク・シブ・チャクはフナク・ケエルにたぶらかされ、イサマル首長アー・ウリルの花嫁を誘拐するという挙に出たという。メキシコの傭兵の助力を借りたマヤパンの軍勢はチチェン・イツァの軍を破り、イツァ族はやむなくチチェンを捨てて逃げ出した。


「マヤ神話」の望月芳郎氏による「解説」より

 偉大なイツァの民が立ち去ったのはそのときである。

「マヤ神話」ル・クレジオ原訳・序  望月芳郎訳

マヤ神話―チラム・バラムの予言

マヤ神話―チラム・バラムの予言