とても2400年以上前の言葉とは思えない

最近、トゥーキュディデースの「戦史」

を読んでいるのですが、そこに出てくるアテーナイ(=アテネ)の大政治家ペリクレースの演説はとても2400年以上前の言葉とは思えません。こういう言葉を古典として持っている人々というのは、きっと私たちとは民主主義に対する信念もずっと違うのだろうなあ、と思いました。いや、ギリシアとローマが全ての政体をあらかじめ実験してくれたのを見て、シニシズムに陥る人もいるかも・・・。とにかく、日本の文化の流れからは考えられない。あるいは私が知らないだけなのか・・・・。
前書きが長くなりましたが、紀元前431年、ペロポネソス戦争初年度の冬(冬は一般に休戦期でした)の戦没者追悼演説の一部です。

わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能に秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公の高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起こそうとも、ポリス*1に益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに掣肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。


「戦史」巻2・37 より


あるいは

われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。


「戦史」巻2・40 より

*1:国家