ペリクレースをめぐって

「戦史」

の著者トゥーキュディデースはこの著作でペリクレースをかなり理想的な政治家として描いています。ペリクレースはペロポネーソス戦争の指導を2年6ヶ月行い、その戦争が終結するよりはるか前に死んでしまうのですが、その彼をトゥーキュディデースは以下のように総括します。

その死後、かれの戦争経過の見通しは一そう高く評価されるにいたった。かれは、もしアテーナイ人が沈着に機をまち、海軍力の充実につとめ、かたわら戦時中は支配権の拡大をつつしみポリス*1に危険を招かぬようつとめるならば、戦は勝利に終ると言っていた。しかるに、他の者たちは、すべてこの忠告に反することばかりをしてしまった。戦争遂行とは全く無関係と思われても、己れの名誉心や利得心を満足させうると見れば事をおこした。成功すれば個人的に名誉ないしは利得がえられるが、失敗すればポリスの戦力を破壊するにひとしい政策を唱えては、アテーナイ人自身ならびに同盟諸国の進路をはなはだしく阻害した。この違いの原因は、ペリクレースは世人の高い評価をうけ、すぐれた識見を備えた実力者であり、金銭的な潔白さは世の疑いをいれる余地がなかったので、何の恐れもなく一般民衆を統御し、民衆の意向に従うよりも己れの指針をもって民衆を導くことをつねとした。これはペリクレースが口先一つで権力を得ようとして人に媚びなかったためであり、世人がゆだねた権力の座にあっては、聴衆の意にさからっても己れの善しとするところを主張したためである。たとえば、市民がわきまえをわすれて傍若無人の気勢をあげているのを見ると、ペリクレースは一言放ってかれらがついに畏怖するまで叱りつけたし、逆にいわれもない不安におびえる群集の士気を立て直し、ふたたび自信を持たせることができた。こうして、その名は民主主義と呼ばれたにせよ、実質は秀逸無二の一市民による支配がおこなわれていた。これに比べて、かれの後の者たちは、能力において互いに殆んど優劣の差がなかったので、皆己れこそ第一人者たらんとして民衆に媚び、政策の主導権を民衆の恣意にゆだねることとなった。


「戦史」巻2・65 より


このトゥーキュディデースのペリクレースに対する評価は、トゥーキュディデースの推定される生い立ちを考えれば、より意味の深いものになります。ここからは学者の推定になるのですが、トゥーキュディデースという名前から、彼は当時のアテーナイの貴族派と呼ばれる政治的一派に属していたと推定されます。それはペリクレース率いる民衆派と敵対する党派でした。それにも関わらず、トゥーキュディデースはペリクレースの政策に賛辞を贈るのです。そこには党派を超えた透徹した認識があるように思えます。さらに、トゥーキュディデースは初めからこの戦争の傍観者だったわけではなく、アテーナイの将軍として戦争に参加していたのでした。彼はある作戦の失敗によって、ペリクレース亡きあとのアテーナイによって20年の追放刑に処せられます。そうであればこそ、なぜ、これほどまでに有利であるとペリクレースが保証したアテーナイが最終的には負けてしまったのか、その理由を明らかにしたい、という思いが強かったのでしょう。私には上の引用文が彼の執筆の大きな動機を説明しているように思えます。



ところで、私の記憶では(というのは、今、読み返しても私の記憶している個所を見つけることが出来ないためですが)塩野七生さんの「ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ」で、塩野さんは初代ローマ皇帝アウグストゥスギリシアのペリクレースと比較していたと思います。のちには皇帝になるアウグストゥス(=オクタヴィアヌス)ですが、そう言えば彼も元をたどれば民衆派の党派の首領だったのでした。私はトゥーキュディデースのペリクレースへの賛辞は、古代ローマになぞらえると、アウグストゥスの政策に賛意を禁じ得ない彼の養子ティベリウスの思いに近いかな、と思っています。というのは、ティベリウス共和制ローマの古い歴史の初期から名声を保持しているクラウディウス家の一員だったからで、その点が貴族派の家系の一員(彼の家系はピライオス家と言います)であったトゥーキュディデースと似ているように思うからです。

*1:アテーナイ国家