ローマは1日にして滅びず(33 最終回)

ローマは1日にして滅びず(32)」でオットー・フォン・ハプスブルクヨーロッパ・ピクニック計画のことを書いたところで、私の「ローマは1日にして滅びず」は、ほぼ終わりです。今日は、付け足しのエピソードを紹介します。


話は東のローマ帝国オスマン・トルコによって滅亡した、1453年のコンスタンティノープル陥落(「ローマは1日にして滅びず(11) 」参照)まで戻ります。最後の皇帝コンスタンティノス11世パライオロゴスにはトマスという弟がいて、コンスタンティノープル陥落ののちもしばらくギリシアのモレアにローマの残党として勢力を保っておりました。しかし、ここも1460年にはオスマン・トルコに屈服し、トマスはアドリア海のコルフ島に家族と共に落ちのびました。彼はローマに行って法王ピウス2世にローマ帝国復活の援助を請いましたが、法王としても自前の軍隊がそれほどあるわけでもありません。そこで西ヨーロッパ諸侯に十字軍を呼びかけましたが、誰も参加を表明しません。そうこうするうちにピウス2世は死去し、落胆したのかトマスも翌年に亡くなります。


トマスの子供たちは枢機卿ベッサリオンに引き取られました。このベッサリオン自身がコンスタンティノープルからの亡命者で、今はカトリックに改宗してローマ法王庁に仕えているのでした。このトマスの子供たちの中にゾエという娘がいました。この娘をローマ法王パウルス2世は政治的な手駒に使おうと考えていました。それはその頃勢力を増してきたロシアと同盟を結んでトルコに対抗しようというものです。当時のロシア皇帝イワン3世は皇后を亡くして独身でした。そこでゾエをイワン3世の妃にしようとしたのでした。さらに法王には、ロシア正教カトリックに取り込んでしまおうという目論見もありました。ロシアは当初から東のローマ帝国の文化圏に属しており、ローマ・カトリックではなくギリシア正教の系統を引くロシア正教を奉じていました。これをカトリックの下に引き寄せることが出来ればローマ法王の権威は一挙に高まります。


ゾエはカトリックとして育てられ、パウルス2世の意図におとなしく従い、モスクワに向かったのですが、モスクワに着いたところで、なんとロシア正教に再改宗してしまいます。同時に自身の名前もソフィアと改名します。こうしてパウルス2世の目論見は崩れ去りました。


この事件は、単にこれだけのことであったのですが、後代の人々の中には、ローマ帝国の皇室の血を引くゾエとイワン3世が結婚したことにより、ロシアがローマ帝国の後継者になった、と主張する人々が現れるのです。このように世界帝国の幻はロシアにも伝わっていくのでした。


この件についてはあまり詳しくないので、ここまでにします。私の「ローマは1日にして滅びず」はこれで終わりです。読んでくださった方々に感謝します。