ムッソリーニへのインタビュー

インタビュー期間は1932年3月23日から4月4日まで。インタビュアーのエミール・ルードヴィッヒはユダヤ系ドイツ人。この時はまだ、ヒトラーは政権を獲っていない。

「100年以上前、ドイツが不運な日々を送っていた頃、ゲーテはドイツの「崩壊」を口にする者をあざ笑いました。われわれの時代の政治家で、特に注目した政治家はいますか?」
 ムッソリーニは即答した。「ビスマルクです。政治的現実の観点から、かれは前世紀最大の人物でした。漫画では、はげ頭に毛が三本と足音のでかい人物として描かれていますが、かれをそれだけの人物と思ったことはありません。あなたの著書を読んで、かれがいかに柔軟で複雑な人物であったか再確認できました。ドイツではカヴールについてよく知られているのでしょうか」
 わたしは答えた。「いや、ほとんど。マッツィーニのほうがずっと有名です。最近、マッツィーニカルロ・アルベルトに送ったすばらしい手紙を読みました。たぶん1831年か32年に書かれたものだったと思います。カルロ・アルベルトは、マッツィーニが国境を越えたら即座に逮捕するように命令を出しましたが、あれは支持なさいますか」
 ムッソリーニは言った。「あの手紙は、史上最もすばらしい文書の一つです。カルロ・アルベルトの人となりは、まだイタリア人にはよく理解されてはいません。しばらく前にかれの日記が刊行されて、おかげでかれの心理はかなりわかるようになりました。最初はもちろん、かれはリベラル派に近い立場をとっています。そして、1832年――いや1833年でしたか――サルディニア政府は、マッツィーニに死刑を宣告しました。これは非常に特殊な政治的状況で起こったことです」


「インタヴューズ1」より

マルクスからヒトラーまで インタヴューズ 1

マルクスからヒトラーまで インタヴューズ 1

これを読んでムッソリーニのイメージが変わりました。なかなか魅力的な人物だと思いました。もっとも、魅力的な人物が同時に独裁者でもある、ということは往々にしてあることですが・・・・・。たぶん、自分はこういう人物に弱いだろうと思います。
彼はドイツの政治家で誰に注目するか、と尋ねられて「ビスマルク」と答えています。そしておそらくイタリア統一戦争におけるビスマルクに対応する人物(ビスマルクドイツ統一に大きく貢献した)としてカヴールを考えていたのでしょう。彼はインタビュアーに尋ねます

  • 「ドイツではカヴールについてよく知られているのでしょうか」

 私(CUSCUS)はカヴールについてはWikipediaに書かれていることぐらいしか知りません。現実的かつ傑出した政治家。イタリア統一を成し遂げた男。歴史ではカヴールとマッツィーニとガリバルディの3名を「イタリア統一の三傑」というそうです。この3名は協力してイタリア統一を成し遂げたというよりは、それぞれバラバラに行動していたのですが・・・。特にカヴールとマッツィーニは敵対していました。現実主義者のカヴールと理想家(そして空想家)のマッツィーニ。サルディーニャ王国による武力統一をめざす(サルディーニャ王国宰相でもある)カヴールと、あくまでイタリア「共和国」を希求するマッツィーニ。
インタビュアーのルードヴィッヒは答えます。

  • 「いや、ほとんど。マッツィーニのほうがずっと有名です。」

 マッツィーニは革命家。アジテータ。ずっと分かりやすい。ルードヴィッヒは続けて

  • 「最近、マッツィーニがカルロ・アルベルトに送ったすばらしい手紙を読みました。たぶん1831年か32年に書かれたものだったと思います。カルロ・アルベルトは、マッツィーニが国境を越えたら即座に逮捕するように命令を出しましたが、あれは支持なさいますか」

 一般のドイツ人にカヴールのことがあまり知られていないことへのお詫びの意味もこめて、私はイタリアの近代史を知っていますよ、ということを示そうとしてこのような質問をしたのでしょう。カルロ・アルベルトはサルディーニャ王国の国王で、イタリア統一をめざしたがイタリアの北部を支配するオーストリア軍に敗北して、退位に追い込まれた人物です。カヴールは次代の王ヴィットリオ=エマニュエーレ2世の元で宰相になりました。
残念ながら私は「マッツィーニがカルロ・アルベルトに送ったすばらしい手紙」なるものを知りません。どなたかご教示願えないでしょうか? ムッソリーニも「あの手紙は、史上最もすばらしい文書の一つです。」と応じています。それにしても次の言い方は何なんでしょう。自分の洞察力をさりげなく誇示しています。

  • 「カルロ・アルベルトの人となりは、まだイタリア人にはよく理解されてはいません。しばらく前にかれの日記が刊行されて、おかげでかれの心理はかなりわかるようになりました。最初はもちろん、かれはリベラル派に近い立場をとっています。そして、1832年――いや1833年でしたか――サルディニア政府は、マッツィーニに死刑を宣告しました。これは非常に特殊な政治的状況で起こったことです」

 一般のイタリア人は理解していないが自分は理解している、ひいては自分には優れた政治的洞察力がある、とムッソリーニは言いたいのでしょう。騙されそうです。