5 王朝の貴族 日本の歴史(その1)
- 作者: 土田直鎮
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2004/09/01
- メディア: 文庫
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この巻「王朝の貴族」の主人公は藤原道長です。ほとんどがこの幸運児に何らかの形で関連する記述になっています。前巻「4 平安京」が村上天皇の崩御で終わっていますが、この巻では序論的な章である「源氏物語の世界」の次に村上天皇の崩御から筆を起こしていて前巻とみごとに連続させています。
967年(康保4)5月25日、午前10時、聖帝のほまれ高かった村上天皇は、人々の深いなげきのなかに、天皇の日常生活の場である清涼殿で崩御した。時に年42歳。
・・・・・このときも型のごとくに宮中警固の命が出され、固関使の発令がおこなわれるなかに、その夜、皇位の象徴として代々伝えられてきた宝剣と神璽(曲玉)とが、清涼殿から北に建物二つへだてた、皇太子憲平親王の部屋になっていた襲芳舎にうやうやしく移され、ここに冷泉天皇の皇位継承が実現したのである。新天皇は年18であった。
世は改まった。藤原氏が朝廷にその勢力を確立してからすでに年ひさしく、今さら形勢が大きく変わるはずもない世の中ではあったけれどっも、やはり天皇の交代という事件は、諸皇子や高級諸臣の一人一人にとっては、微妙深刻な影響を与えずにはおかない。・・・・
その後、源高明(たかあきら)を失脚させることになる安和(あんな)の変があり、この事件から清和源氏(源高明とは別の系統)という武士の姿が見え始めます。このあとは藤原兼通(かねみち)兼家(かねいえ)の兄弟が藤原氏の氏の長者の地位を巡って争い、この兼家の四男として道長が現れます。兼家は長い間、兄の兼通に押さえつけられていて不遇だったのですが、この四男が成長する頃には兼通が死んで一気に道が開けます。
普通ならば、昇進はだいたいは兄弟順になることが多いから、四男というのはよほど分が悪い。ところがかれの場合は、すこし違う。父兼家が長いこと隠忍しているあいだは、子供たちの昇進ももちろん遅々として進まなかった。兼家は生来強気の、豪傑肌の人であったらしいが、その兼家が久しいあいだ隠忍していたのだから、最高位にすわったときの反動はすさまじかった。・・・・
兼家が子供たちを引き上げるのも派手で・・・・
・・・・・なにぶん兼家の不遇期が長かったために、兄のほうはすでに相当の年齢になってしまっていた。ところが道長は末子だったため、被害をほとんどこうむることなく、23歳で権中納言という、記録的な好スタートを切ることができたのである。
第二にかれがさらに幸運だったのは、それからわずか6年ののちには、父も兄もすべて死亡してかれ自身が摂関家の筆頭格にのしあがったことであった。
30歳の時に道長はライバルで甥の伊周(これちか)をくだし、一条天皇の宮廷で首位を得ます。それからこの本は一条天皇の宮廷の様子を描きます。
世の中というのものはまことに不思議なもので、上が英明であるとたしかに人材が出てくることが多い。・・・・一条天皇の宮廷に多数の人材が輩出したことは注目に値する。大江匡房(まさふさ)といえば平安時代後期の有名な博識の学者であるが、かれの著作、『続本朝往生伝』には、一条天皇朝の人材輩出の姿を特記して、「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と評し、以下20の分野にわたって総計86人の名を掲げ、「皆これ天下の一物(いちもつ)なり」と結んでいる。
そこには無論、大臣として藤原道長、伊周の名が挙がっていますが、和歌では和泉式部、赤染衛門、陰陽道では安倍清明や賀茂光栄の名が挙がっています。
一条天皇自身も、多くの人材を得た点では延喜、天暦の代にもすぐれていると自負したという話が伝わっているが、いかにもそうであったろうと思われるのであって、ことにその人材がすべて宮廷生活に結びつき、よく調和してそろっている点から見て、一条天皇の宮廷こそ、やはり日本の宮廷生活の完成した姿であり、代表であるとしてよかろう。
その宮廷に道長は自分の娘、彰子を中宮として入内させるわけで、それはすでに宮廷に一条天皇の中宮としてなっている定子と対立することになります。そしてこの宮廷世界はまた定子に仕える清少納言と彰子に仕える紫式部の活躍する世界でもあったわけです。長くなりましたのできょうはこのあたりまで・・・。