6 武士の登場  日本の歴史

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

日本の歴史 (6) 武士の登場 (中公文庫)

東国*1から平忠常(たいらのただつね)叛(はん)すとの第一報が京都に達したのは、1028年(長元1)6月のことであった。藤原氏の全盛をほこった藤原道長がその栄華にみちた生涯をおわった翌年であり、京都を震駭させた平将門の乱からおよそ百年を経過していた。

平将門の乱ほど有名ではないと思いますが、その百年ぐらいあとに平忠常の乱、という事件があったそうです。この巻は、前巻「5 王朝の貴族」で主人公であった藤原道長の死の翌年に発生したこの事件から筆を起こします。この平忠常の乱は現在の千葉県全域を京都の朝廷から3年間独立させた乱で、これを鎮定するために朝廷の貴族たちが選んだのが源頼信(みなもとのよりのぶ)でした。こうして、のちに平清盛源義経、頼朝の時代に歴史の主役になる源氏と平家が登場します。
しかし、のちの源平合戦の話の印象から最初から源氏と平家が対立していたと考えるとこの時代の歴史はよく分からなくなります。実際、源頼信平忠常の追討史に任命されると平忠常はすぐに投降してしまいますが、この本ではその原因は、元々平忠常源頼信と主従関係を結んでいたからだと説明しています。この場合、源頼信平忠常の主君となっていました。このような武士の主従関係は都の政治とは別のところで、武士同士の戦いの中で形成されたようです。この巻では次のような逸話も紹介しています。

頼義(よりよし)*2忠常の乱後、京都にかえり、小一条院判官代(ほうがんだい)として敦明(あつあきら)親王につかえていた。狩猟のすきな院のお供をして、いつも弱弓を持って獲物を仕止める射芸の達人であった。忠常の乱に追討史となった平直方(たいらのなおかた)は*3、かれの騎射に感じ、請うてその女婿(むすめむこ)にむかえている。その腹に義家(よしいえ)・義綱(よしつな)・義満(よしみつ)が生まれた。したがってこの3人は平直方の外孫にあたるわけである。

源氏と平家だから最初から敵同士であるわけではなく、武士階級が発展途上の段階では、平家同士でも所領争いをするし、源氏同士でも同じように争い、源氏の者が平家の者の婿になることもあったわけです。


本巻のタイトル「武士の登場」はこの巻の内容を的確に表しています。関東という(当時の)辺境から現れた武士というものが最初は京都の貴族の召使としていいように使われていたのが、やがて自分たちの実力を認識して政権をとるに到るまでの過程を描いています。具体的には平家の滅亡までを描いています。この巻は次の文章で閉じられます。

源平両氏がはっきりした意識をもって対戦したのは平治の乱*4がはじまりであった。しかしこの争乱は、せまい京都を舞台とし、手もとにありあわせた郎等だけでの戦闘であった。それにたいして寿永以後の戦闘は、くずれゆく古代国家に抵抗しておこった全国的な内乱のうえにたち、それを率いての源平両氏の決戦であった。勝ちのこった一方の棟梁は当然全国の支配者である。勝敗の決定は、同時に日本中世の開幕でもあった。

*1:関東

*2:源頼義源頼信の子。

*3:最初は平直方が追討史に任命されたが乱を鎮定出来ず、源頼信に交代させられたのです。

*4:1159年