伯林蠟人形館――皆川博子

私はほとんど小説を読まないのですが、第一次世界大戦後からヒトラー内閣成立までの時代に元々興味があり(たぶん十代の頃から)id:paseyoさんのブログでこの本の紹介がなされていた(読了:伯林蝋人形館(皆川 博子)――とは云ふもののヽお前ではなし)のを読んで「これは読みたい!」と思い、すぐに図書館で探して借りて来ました。私はこの時代の人々がなぜ民主主義を見放すにいたったのか(自分を不自由な身に置こうとしている政党を、よりによって選挙でなぜ選んでしまうのか)、というパラドックスが若い頃からずっと気になっていたのでした。そこに至る原因のひとつになった第一次大戦後のドイツの混乱については、そしてその混乱が人々に与えたトラウマについては、あまり知られていないような気がしていました。id:paseyoさんの書かれた紹介文の中から、この本はこういうことをきちっと書いているに違いない、という直感を受けました。そして本を開く前に、第一次大戦後前線から戻ってきたある若者の絶望感のこもる言葉を思い出していました。

人々は言う、戦争は終わった、と。
笑わせる。俺達自身が戦争なんだ!


この言葉はこの本にも登場していました。私の記憶しているものとちょっと言葉が変わっていましたが・・・。

戦争が終わった? 冗談じゃない。俺たちの存在が、戦争そのものなんだ。

私はこの言葉を見い出してある種の安堵感とこの本への信頼感を覚えました。もちろん、この本は歴史書ではなく小説です。それも歴史小説ではなくもっと幻想的な種類の小説です。しかし幻想を通してこそより確かに伝わるものもあるでしょう。


この小説は6名の登場人物がそれぞれ自分を語る形式で進むのですが、その6名がそれぞれ他の誰かとあるところで関わりがあって、6名の視点で出来事が語られていきます。6名の視点は一致しません。男と女の話であり、男と男の話でもあります。その中心にいるのはこの6名には含まれない架空の詩人ヨハン・アイスラーと彼の抱える虚無です。その虚無が時代の虚無を映し出し、その中からナチスの台頭が始まる・・・・。


この本は歴史書ではないのですが、私には歴史上のことで認識を新たにしたことが2つありました。

  • http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Bundesarchiv_Bild_102-00033%2C_Essen%2C_Ruhrkampf%2C_Beisetzung_der_Opfer.jpg

ひとつは、第一次大戦後のフランスによるドイツのルール地方の占領が過酷なものであった、ということ。詳しくはこの小説に描かれていますが、非武装の労働者のデモに対してフランス軍が発砲して死者が出たとは私は知りませんでした。こんな目に合わされれば、多くのドイツ人が国家主義者になっても無理はない、と思います。

葬儀の後、クルップの工場から墓地へ向かう犠牲者の棺。1923年4月10日 (Wikipediaより)



もうひとつは、第一次大戦後のドイツのいわゆるワイマール共和国の安定がたった5年だったということです。これは年表を見れば分かるのですが、この本で指摘されて私は始めて認識しました。つまり1918年の敗戦から、左右の対立による内戦、政治家の暗殺、過酷な賠償金、フランスによるルール占領、フランスへの抵抗運動、という動乱が収束したのが賠償方法のドーズ案をドイツが受諾した1924年です。しかし1929年にはアメリカから始まった世界恐慌がドイツを襲い、たちまち失業者が300万人を超える、という時代に突入してしまうのです。ワイマールの春はたった5年しか続かなかったのです。人々がようやく忘れかけていた敗戦後の虚無と屈辱の日々の記憶がよみがえり、ワイマールの春の以前から一貫してベルサイユ体制への復讐を叫んでいた政党に、人々が共感を覚え始めるのもなるほどと思うのです。もし世界恐慌がもう少し遅く来たら、あるいは歴史は大きく変わっていたかもしれません。