7 鎌倉幕府 日本の歴史(つづき)

承久の乱は、鎌倉幕府が京都の朝廷に反乱したのではなく、先に宣戦布告したのは(つまり北条義時追討の綸旨を出したのは)後鳥羽上皇のほうでした。武士方が攻撃に対して抵抗したのが承久の乱でした。以下の記述から、彼らの幕府を守ろうとする(ひいてはそれが彼ら自身の生活を守ることになるのですが)危機意識がうかがえます。

夕刻ただちに首脳部会議がひらかれ、対策が協議された。はじめは、箱根・足柄の関を守り、徹底的に抗戦すべし、との意見が多数をしめた。このとき眼病にかかってすでに失明に近かった大江広元が口を開いた。「そのご意見ももっともだが、防禦に専心したのでは、東国武士の中にも動揺がおこる心配がある。運を天にまかせ、さっそく京都を攻撃すべきだ」
頼朝以来政治顧問として幕府の枢機に参与し、すでに七十をこえたこの老政治家の意見に一座は耳をかたむけ、政子もこれを支持した。
(中略)
だが軍勢の集まりを待っている間に、慎重論がまた勢いをもりかえしてきた。翌々日の首脳部会議では、ふたたび広元が即時出撃を強調し、とくに重病の床から会議に列席していた三善康信もまた、苦しい息の下から、これを全面的に支持した。ただちに義時の長子北条泰時東海道軍の大将として、わずか主従十八騎の手勢でひとまず鎌倉を出発した。

大江広元三善康信、ともに老齢の二人がこれほどまでに攻撃を主張した理由、心情は何だったか、推し量ってみたくなります。二人とも下級の公家の出身であり、かつて幕府草創期に源頼朝リクルートされ、文官として幕府の事務を支えてきたのでした。さて、上に引用したように鎌倉方は最初はたった18名(!)で京都に進軍を始めたのでした。それが京都に着くまでに各地の武士団が合流し、実数は不明ながら相当な大軍に膨れ上がっていきます(「吾妻鏡」には19万騎と記されているとのことです)。武士の圧倒的多数が幕府というものを支持していたということなのでしょう。


私はこの巻に紹介されている諏訪氏に関する次の逸話に興味を持ちます。諏訪氏はこの頃武士の家柄でしたが、元々、古代の諏訪地方の豪族であり、代々諏訪大社の大祝(おおはふり。諏訪大社の最高の神官)を務めてきました。

すでに幕府のもとに馳せ参じ、鎌倉御家人となっていた諏訪氏のもとへも鎌倉からの動員令が到着した。一族はさっそく集合して評議をこらしたが、京都の朝廷を正面から敵としてたたかうこの合戦への出陣の是非をめぐって議論がわき、ついに神の決裁をあおいで態度を決定することになった。大祝(おおはふり)が神前で慎重に可否を占ったところ、神のおつげは「さっそく出陣せよ」と出た。この神判によって疑惑をといた諏訪氏一族は、これまで将来の大祝として心身をつつしみ、自分で戦場にのぞんだことのなかった大祝の長男を先頭に立て、こぞって東山道軍に従い、出陣した。このとき、神の使いである宮烏数百羽が群をなしてこの軍勢を先導し、人々は神の加護に感激しながら戦場にのぞんだ、という。


天皇家というのはアマテラスの直系の子孫として神道世界の権威を持つものですが、この諏訪大社の神は天皇方に味方せず、それに抵抗することを後押ししたというのです。もちろん、それは当時の諏訪氏の構成員の心情を反映したものだと思いますが、日本の神が天皇家の権威を離脱した(離脱したと人々によって考えられた)、というところが非常に意義深いと私には感じられます。


承久の乱での幕府方の勝利というのは革命的な出来事で、この結果、後鳥羽上皇順徳上皇土御門上皇の3上皇が一挙に配流になったのでした。さらに、権力はないとはいえ幼い3才の仲恭天皇も退位させられ、別の天皇後堀河天皇)が立てられたのでした。天皇の権威は随分と減少しました。