ヤマト王権 シリーズ日本古代史②

2010年の出版なので比較的新しい本です。最近のこの話題に関する学説を知るのによい本だと思いました。著者自身の説だけでなく広く学界の説をコンパクトに紹介しています。著者の説として、私が目新しく思ったことは次の3つです。

  • 1つ目は、前方後円墳の拡がりの時期とヤマト王権の成立時期を同時としないこと。著者によれば、前方後円墳の拡がりの時期よりあとにヤマト王権は成立したのでした。ということは初期の前方後円墳の時代にはまだ王権と呼ばれるほど集権的な体制ではではなかった、ということです。
  • 2つ目は、4世紀、5世紀のヤマト王権を、特定の地域を基盤としない王権だったからこそ、王の代が変わるごとに王宮を移していたのだ、という見方です。
  • 3つ目は、「大王(おおきみ)」というのが正式な称号であったという証拠はない、ということです。


1つ目については

ところで、考古学では定型的な企画で築造された前方後円墳の成立をもって、ヤマト王権の成立を説く研究者が少なくない。首長権の敬称を含めた、宗教的な祭司を伴った葬制儀礼のネットワークに加わることで、ヤマト王権の成立を見るという考え方である。こうした一部の考古学の学説には、必ずしも理論的な根拠が示されておらず、疑問である。

前方後円墳体制は倭国統合の象徴であり、統合された倭国の最終的な到達点であった。したがって、前方後円墳体制の形成は、何よりも倭国の統合プロセスのなかに位置づけるべき問題であり、ヤマト王権の成立問題とは、原理的に離して考える必要がある。

これまで述べてきた日本列島の政治的統合のプロセスを、時系列で位置づけると、
(1)倭国としての統合の展開(1世紀末から2世紀初頭)
(2)近畿地方を中心とする定型的企画をもつ前方後円墳秩序の形成(3世紀後半)
(3)ヤマト王権の成立(4世紀前半)
という三段階を設定し、考察するのが妥当だろう。


いずれも「ヤマト王権」吉村武彦著 より

これはなかなか面白い歴史観だと思いました。そして著者によれば、その初代の王はのちに祟神天皇と呼ばれることになる人物であるということです。その後の歴史はなかなかはっきりたどれないのですが、やがてその流れは倭の五王につながり、継体天皇の即位からはよりはっきりした姿の歴史がみえることになり、推古天皇の即位までをこの本は叙述しています。


2つ目については

ところで、歴代遷宮はなぜ行なわれたのであろうか、言葉を換えれば、どうして同じ場所に王宮が営まれなかったのであろうか。結論的にいえば、ヤマト王権は特定地域を政治的・経済的基盤にするような王権ではなかったため、必要な所に自由に王宮を造ることができたからである。

ヤマト王権の首長は特定地域を代表するのではなく、王権を構成する氏族集団を統合する代表者として存在しているのである。したがって、特定地域に固執することはなく、王権にとって必要と思われる場所に王宮を立地させることができた。


いずれも「ヤマト王権」吉村武彦著 より

この論もはっとします。また、このように「おみこしに祭り上げられる」タイプの首長というのは日本の歴史に何度も登場する類型だと思いました。


3つ目についても紹介したいところですが、もう時間がなくなりましたので、ここで切り上げます。