「誰かがいつかミノア語の解読に成功するだろう。」 サイラス H. ゴードン(Cyrus H. Gordon)とミノア線文字A(6)

グレイ A. レンズバーク(Gray A. Rendsburg)著

 ミノア語とエテオクレタ語の聖書研究への適用はほとんど我々の注意に値しない。明らかにミノア語/エテオクレタ語は最も知られていないセム語なので、聖書学者が直面している問題の上に大きな光を当てることを期待することは出来ない。しかしながら小さな光線はそれでもなお前を照らす。ここで小さな例を含めよう。
 ゴードン(1966:27)は、ミノア語の行政文書の最後にあるku-ro「全て、合計」の使用は聖書でのいくつかのリスト(ヨシュア記 12:24、エズラ記 2:42)の最後にあるkôlhakkôl「全て、合計」の使用と類似していることを書きとめた。R. R. スティーグリッツ(1971)はこの現象の他のいくつかの例(創世記 46:26, サムエル記下 23:39)を書きとめた。私の知る限りまだ指摘されていないことは、ミノア語のリストと聖書のリストの間の構造全体に渡る類似性である。最も目立つのは、ハギア・トリアダ文書88の裏面とヨシュア記12:1-24にある征服された王たちのリストとの間の類似である。両方の文書は、「1」を示す表記に続く個々の項目のリストを示しており、リストの最後には「全て、合計」を示す単語と項目の合計数が現れている。目立ったことに、大部分の聖書学者たちは、ヨシュア記のリストは征服の物語の早期のバージョンへの後からの追加であると仮定しており、よってこのリストをいわゆるDtrかいわゆるPに割り当てている(ボーリングとライト 1982:322を参照)。しかしミノア語の類似物はヨシュア記のリストの古さを主張する。それはヨシュア記に不可欠なだけでなく、早期の情報源であると考えるべきである。kol mělākȋm(v.24)という表現は期待される明確な記事を欠いていて、このリストの古さを指示するもうひとつの言語学的な点であることにさらに留意すべきである。
 後期聖書ヘブライ語を扱って私は、ヘブライ語の歴史に関する論点の別の方向からの支持としてエテオクレタ語の証拠を引用することが出来た。アヴィ・フルヴィッツは以前、kol X wě-X連辞は後期聖書ヘブライ語の特徴であることを示した(フルヴィッツ 1972:70-73)。この証拠についての私の議論において、私はこの使用のさらなる例として紀元前約500年のエテオクレタ語の銘文の中で証明された語句ΚΛ ΕΣ ΥΕΣ(=kol ˀȋš wā ˀȋš)を提出した(レンズバーク 1980:69。テキストについてはゴードン 1966:10を参照)。
 3番目の例として、私はもうひとつのゴードンの観察を引用する。上で引用したエテオクレタ語の語句の中で「人」という単語は、期待されるiir「町」と比較せよ)とは対照的に、ΕΣと書かれている。ここで次に名前ˀešbaˁal「Eshbaal」(歴代誌上 8:33, 9:39)、文字どおりには「バアルの人」の最初の要素との類似を我々は持つことになる。この名前はよりなじみのあるˀȋšbōšet「Ishbosheth」(サムエル記下 2:8など)、文字どおりには「恥の人」に対応している(ゴードン 1992:193)。
 1966年に続く数年の間、ゴードンのミノア語とエテオクレタ語に関する業績は少なくなっていった。主要な寄与は1957年から66年の期間になされた。しかし、私は個人的な経験からこの主題への彼の興味はけっして衰えなかったことを知っている。1970年代のゴードンのもとで私が大学院生であった間、彼のセミナーはクレタ島セム語に関する情報がばらまかれていた。そして私の師との最近の議論と文通から、彼が解読において活動的な参加者であり続けていることを私は知っている。1991年に彼は、ミノア語の研究に従事している2人の一流のヨーロッパ・セム語学者であるクイェル・アールトンとルドルフ・マスフに個人的に会うためにオスロを訪れた。アールトンの最近の著書(アールトン 1992)は、ミノア語がセム語であるというゴードンの基本的な理解を学者が受け入れたもうひとつの例である。
 最後に、この文章を書いている今、ミノア語の研究の分野におけるゴードンの最新の視野について私は彼と連絡を取り合っている。ゴードンは、ミノア線文字Aは新石器時代と金石併用時代のドナウ渓谷の古ヨーロッパ文字に由来しているというハロルド・ハールマン(1990)とマリア・ギンブタス(1991:308-21)の意見を受け入れると私に知らせて来た。よって以下のシナリオがもたらされる。古ヨーロッパ文字/線文字Aは新石器時代に南西ヨーロッパで発達しこの領域で後期青銅器時代まで(線文字Bの形で)使用され続けてきた。青銅器時代(早期青銅器時代? 中期青銅器時代?)に先にクレタ島にやってきたセム人は自分たちのセム語を書き記すためにこの文字を使用した。ゴードンのミノア語研究の最初のステップのあとのほぼ40年間、彼はこの分野を未来の発見のための肥沃な大地として見続けてきた。線文字A文書についてなすべきことがずっと多くあり、ファイストス円盤は解釈を待っており(今はアールトン 1992を参照するが)、新たに仮定された古ヨーロッパ文字とのつながりはやはりさらなる道を開いている。ゴードンが近東への最初の訪問の際にかつてクレタ島を航行してから65年間、この島から出土する銘文は魅惑し続けている。


(2013/5/26 梅雨に突入する前の横浜の青空の下で翻訳を終える。)