ミレトスに関する追記

古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて (岩波新書)

古代ギリシアの旅―創造の源をたずねて (岩波新書)

この本を読んでいたら、ミレトスについて重要な記述があったので引用します。

 ところで、碁盤目につけられたミーレートスの街路は、ちょうど東西南北ではなくて、それから30度近く時計回りに回転させた方向になっています。この方向は、ミーレートスがその上に建設された半島の方向と一致していて、地形的に都合がいいのは確かです。しかし、古代の人々が、実用的な理由だけから大切な方向を決めたとは思えません。
 この問題はずっと頭に残っていて、あるときふと思い付き、試みに、南北から30度近く傾いた街路を、西南の向きへ延長してみました。この直線はクレータ島の東部を通り、そして、そこにミーラートスの地名を見いだすではありませんか。この都市こそ、ミーレートスの人々の故郷、母なる都市メートロポリスであり、ミーレートスの名の由来するところなのです。
 古代ギリシアの人々は、幾何学によって、彼らの父祖の地と結ばれていたのです。

クレタ島のミレトス(ミーラートス)については、この著者が別の箇所で述べているように、ホメロスイリアスにも登場しています。私は「エーゲ海のある都市の物語:ミレトス」を書く際にそのことに気づいていましたが、話の運びをすっきりさせるためにあえて「ミレトスの母市はアテナイ」という伝承だけを取り上げました。では、ここでイリアスでのそのくだりを引用します。巻2の船ぞろえの段、ギリシア軍とトロイア軍のそれぞれの構成を述べる箇所です。まず、ギリシア軍側にはクレタ島のミレトスが登場します。

 さてクレーテー人らを引具(ひきぐ)したのは槍に名だたるイードメネウス、
この面々はクノーソスや、塁壁(とりで)をめぐらすゴルチュース、またリュクトス
さてはミーレートス、あるいは白堊に富めるリュカストスを保つ者ども、
されば、これらを引具したのは槍に名だたるイードメネウスと、
メーリオネースで、武士(もののふ)を殲(ころ)すエニュアリオスにもたぐつべきもの、
この人々に伴なって、八十艘の黒塗りの船が従って来た。


ホメーロスイーリアス」巻2より


一方、トロイア側には小アジアのミレトスが登場します。

次にまたナステースは、鴃舌(げきぜつ)を使うカリア人らを引率してたが、
この人々こそ、ミーレートス(市)や、プティーレスの森蔭つづく山なみ、
またマイアンドロスの流れ、さてはミュカレーの峻(けわ)しい城に拠(よ)るものなれ。


ホメーロスイーリアス」巻2より

小アジアのミレトスの母市は本当にクレタ島のミレトスだったのでしょうか? 仮にそうだとしても私には、その時のミレトスはギリシア人の町ではなかったと思います。私はヘロドトスの「歴史」巻1の171にある以下の記述から、まずクレタのミレトスにいたカリア人が小アジアのミレトスを建設し、その後(トロイア戦争ののち)、ギリシア人のうちアテナイから出発した者たちがカリア人たちを放逐してミレトスを奪い取ったのではないか、と想像します。

・・・カリア人は、島から大陸に渡ってきたものである。というのは、古くはミノス王(クレタの王)の支配下にあってレレゲス人と呼ばれ島に住んでいたのである。


ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)

ヘロドトス 歴史 上 (岩波文庫)


このミレトスの街路の方向の話にはびっくりしましたが、この本の記述でもっとびっくりしたのは次の箇所です。

 古代の人々は、方位に、空間のさまざまな方向に、深い精神的な意味を見出していました。たとえば、ミーレートスの南約20kmのディデュマには、前6世紀ミーレートスの人々によって建てられ、前3〜前2世紀に再建された、アポローンの神殿があります。二重周柱様式で、その柱の太さがとりわけ印象的です。神託が大きな権威をもっていたこの神殿が、ミーレートスからかなり隔たったこの地に建てられた理由は、おそらく、ディデュマの真西にアポローン誕生の地、デーロス島が横たわっているからでしょう。さらに、デーロス島をはさんで、ディデュマと対称の位置に――それはペロポンネーソス半島になりますが――、やはりディデュマ(現代ギリシア語でディディマ)という地名が見出されるのです。

これを地図で調べてみると下の図のようになります。きれいに東西に並んでいます。2つのディデュマの間の距離は250kmぐらいでしょうか。

ミレトスの南にあるディデュマについては「エーゲ海のある都市の物語:ミレトス(書き残したこと2):ディデュマ」に書きました。