まずギリシアの文学の最古のものとされているホメロスの叙事詩、イーリアスとオデュッセイアーから検討していきましょう。これらの叙事詩にはミュティレネの名前は登場しなかったと思います。では、もう少し範囲を拡げて「レスボス島」が登場するかどうかを調べてみたところ、私が調べた限りでは「イーリアス」に1箇所だけ「レスボス」の名前が登場します。
それは第24書(最終の書)のところで、イーリアス全体の終り近くの箇所です。トロイアの年老いた王プリアモスが、ギリシア側の英雄アキレウスに討ち取られ、今はアキレウスが所持している自分の息子ヘクトールの遺骸の返還を求めてアキレウスに面会する場面です。戦争状態にある2つの集団の一方の総大将であるプリアモス王が、敵陣の中に単身行くことなど、それもギリシア軍中第一の勇士であるアキレウスのところへ行くことなど、自殺行為に等しいのですが、神々の助力もあって、愛する息子の遺骸の返還を願うために、その代償として多くの宝物を携えて、あえてアキレウスの許を訪ねたのでした。ここに敵味方の2人は数多くの怨念を背負ったまま、人間同士としての対面を果すのでした。そしてプリアモスはアキレウスの父親も自分と同じく老齢であろうことを思い起こさせ、その父が子を思う心を察して欲しいと言って、ヘクトールの遺骸の返還を求めます。それに対してアキレウスはプリアモスに同情し、かつてはプリアモスが、人もうらやむ仕合せのうちに過ごしていたのに、やがて神々が不幸を寄越されたと話します。その語りの中にレスボスの名前が1回だけ登場します。以下はアキレウスの言葉です。
また御身も、御老人*1よ、以前は 仕合せだったと洩れ聞いている。
上(かみ)はマカルの住居というレスボスから、陸(みち)の奥(く)はプリュギエー、
涯(はてし)を知らぬヘレースポントスが 仕切る限りの国々では、
裕福さで、また子持(こもち)として、御老人よ、御身に優る者はなかったと。
イーリアス 第24書 540-550行あたり
- 作者: ホメーロス,呉茂一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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上の引用に登場するいくつかの地名を地図に示しました。ただし「プリュギエー」はイオニア方言なので、より一般的な「プリュギア」の名前で示しました。
上の引用から推測するとどうもレスボス島はトロイアの領土もしくは勢力圏の中にあったようです。まだ、この時代にはレスボス島にはギリシア人は到来していなかったのでしょう。
ところで上の引用の中に「マカルの住居というレスボス」という語句があります。このマカルというのは神話的人物で、レスボスの開祖とされる人物です。ギリシア神話では太陽の神ヘーリオスの息子の一人ということになっています。ところがややこしい話ですが、「イーリアス」よりのちの時代に出来たと推測されるホメロス風の「アポローンへの讃歌」には「アイオロスの子マカル」という語句が現れます。
スキューロス、ポーカイア、アウトカネーの険しい峰、
ひと住むによいインブロス、靄(もや)たちこめたレームノス
アイオロスの子マカルの座なる神々しきレスボス、
海に浮かぶ島々の中でもひときわ豊饒なキオス、
アポローンへの讃歌、岩波文庫 四つのギリシャ神話(「ホメーロス讃歌」)より
四つのギリシャ神話―『ホメーロス讃歌』より (岩波文庫 赤 102-6)
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ギリシア神話の中でアイオロスという名前の神あるいは人は何名か存在するのですが、その中で有名なのは風の神としてのアイオロスと、アイオリス人(ギリシア人の一派)の祖先としてのアイオロスの2名が存在します。「アポローンへの讃歌」で指しているのはどちらのアイオロスなのか判断がつきません。しかし、レスボス島はギリシア古典時代にはアイオリス人の領域だったので、このアイオロスはアイオリス人の祖先としてのアイオロスかもしれません。しかし私は上に示したイーリアスでの記述を重視して、マカルはギリシア人ではないレスボスの王であると考えます。アポローンへの讃歌は、その後ギリシア人(アイオリス人)がレスボスに定住してからの伝承の改変が反映されているのだと推測します。
なお、古典時代のギリシア人の方言の分布は右の図のようになっていました。この中で黄色に塗られているのがアイオリス方言の話されている領域です。アイオリス人はギリシア本土のテッサリアあたりから小アジアに向けて植民活動が進んでいったと推測されています。ギリシア本土のテッサリア、その南のボイオティア、東に進んでエーゲ海のレスボス島、小アジアのいわゆる「アイオリス地方」にアイオリス人が拡がっています。