エーゲ海のある都市の物語:アイギナ(7):ペルシアからの服属要求

BC 498年、ミレトスを中心とするエーゲ海東側のギリシア諸都市がペルシアに対して反乱を起こしました(イオニアの反乱)。エーゲ海の西側では、アテナイとエウボイア島のエレトリアがこの反乱に援軍を派遣しました。イオニアの反乱は最終的にはBC 494年にペルシアによって鎮圧されたのですが、この反乱にアテナイとエレトリアが援軍を出したことがペルシア王ダレイオスに、ギリシア本土進攻の口実を与えたのでした。

ダレイオスは、ギリシア人が果して自分に対して戦う意志があるのか、それとも結局は屈伏しようというのかどうかを試みようとして、ペルシア王に土と水を献ぜよと要求する使者をギリシア各地に派遣した。


ヘロドトス著「歴史」巻6、48 から

この「土と水を献ずる」というのは、ペルシア王に服属する意思を示す、という意味でした。

ギリシアに派遣された使者に対し、本土においてもペルシア王の要求どおり土と水を献じた町は少なくなかったが、島嶼に至っては使者の訪れたことごとくの島がその要求を容れたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、49 から

ペルシアは大国であり、戦っても勝ち目はないだろうと思うエーゲ海の島々の住民は多かったのでした。それにイオニアの反乱の鎮圧後であってもイオニアにおけるペルシアの支配はそれほど厳しくはなかったこともうわさで知っていただろうと思います。そうなると下手に反抗するよりも早めに服属の意をペルシア王に示したほうが得策だと考えたとしても、あながち非難できるものではありません。

ところがダレイオスに土と水を献じた多数の島の中には、アイギナも加わっていた。

この頃アイギナの貿易相手はペルシアの支配下の町々が多かったのでした。ペルシアからの服属要求を拒否すれば、自国の経済が崩壊してしまいます。それにペルシアが敵視しているのはギリシアの中でも、この時点ではアテナイとエレトリアの2市だけなのです。ここはペルシアの要求を呑むしかありません。しかし、それに異を唱えたのが隣国のアテナイでした。

アイギナがこの挙に出ると間髪を入れずアテナイはアイギナ攻撃の火蓋を切った。アテナイとしてはアイギナがペルシア王に屈服した真の狙いはアテナイであり、アイギナはペルシア王と組んでアテナイを攻める意図であると考えたからで、好い口実を得たことを喜び、スパルタと連絡をとりアイギナ人の行動はギリシアを裏切ったものであるとしてその罪をスパルタ人に訴えたのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、49 から

アテナイがなぜこのことをスパルタに訴えたのか、よく分かりません。アイギナがドーリス人の国であることから、ドーリス人の中心的な国としてのスパルタに裁決を委ねたのかもしれません。


ところでスパルタには2つの王家があり、常時2人の王がいました。この2人の仲が良ければ問題ないのですが、この時は仲が非常に悪かったのでした。この時1人の王(クレオメネス)はアイギナを罰しようとしたのですが、もう1人(デマラトス)はそれに反対しました。

当時スパルタの王はアレクサンドリデスの子クレオメネスであったが、右のアテナイの訴えをきくとアイギナの首謀者をとらえようと考えてアイギナへ赴いた。しかし彼が首謀者の逮捕に奔走している時、彼の措置に反抗したアイギナ人も少なくなかったが、中でもポリュクリトスの子クリオス(「牡羊」の意あり)が最も強硬で、クレオメネスがアイギナ市民を一人たりとも連行しようとするならば、ただでは済まさぬと公言した。クレオメネスの今度の行動は、アテナイ人に買収された結果であって、スパルタ国民の総意によるものではない、さもなくば彼は当然もう一人の王と同行して逮捕にきたはずだというのである。クリオスがこのような発言をしたのは、デマラトス(=もう一人のスパルタ王)の入れ知恵によるものであった。
 クレオメネスはアイギナを退散するにあたって、クリオスにその名を訊ねた。クリオスが名乗ると、クレオメネスは彼に向っていうのは、
「牡羊よ、今からもうその角を青銅張りにしておくがよいぞ。やがて大変な目に遭うことになろうからな。」


ヘロドトス著「歴史」巻6、50 から



クレオメネスは陰謀をめぐらしてデマラトスを追放し、その代わりにレオテュキデスを王を立てました。そしてレオテュキデスと共に再びアイギナにやってきました。前回の時にクレオメネスに抵抗したクリオスは、今回は拘束されてしまいます。以下の文からクリオスがアイギナの有力貴族の出であることが分かります。これらの有力貴族が親ペルシア派だったわけです。

クレオメネスのデマラトスに対する工作が思いどおりに運んだ後、クレオメネンスはただちにレオテュキデスを帯同してアイギナに向った。彼は先に加えられた侮辱の故に、アイギナ人に対しては激しい怨恨を抱いていたのである。かくしてアイギナ側も、二人の王が打揃って出向いたからには、これ以上逆らうのはよろしくないと考え、市民の内から資産も家柄も共にぬきんでた者十人――中でもアイギナで最も勢力をふるっていたポリュクリトスの子クリオス、アリストクラテスの子アサンボスの二名を含み――を選んでスパルタ側に引き渡した。クレオメネスは彼らをアッティカ領内に連行し、アイギナ人には不倶戴天の敵なるアテナイ人にその身柄を預けたのであった。


ヘロドトス著「歴史」巻6、73 から

その後、しばらくしてクレオメネスは死亡してしまいます。アイギナはスパルタ政府に対して、王たちの行為が不法なものであったと訴えました。スパルタではその王権は弱く、民会によって王が罰せられることもしばしばありました。

アイギナ側ではクレオメネスの死の報に接すると、アテナイに人質として監禁されている者たちに関し、レオテュキデスの罪を糾弾するために使節をスパルタへ送った。スパルタでは法廷を開いて審議した結果、レオテュキデスがアイギナ人に対してとった措置は不法であることを認め、アテナイに監禁されている者たちの身代りとして、レオテュキデスを引き渡し、アイギナへ連行させるという判決を下した。
 さていよいよアイギナ人がレオテュキデスを連行しようとしているとき、レオプレペスの子テアシデスというスパルタでは名のある男が彼らに向っていうには、
「アイギナの方々よ、そなたは何をしようとなされるのか。スパルタ人が引き渡したからスパルタ王を連行してゆくというわけか。スパルタ人は今は(レオテュキデスに対して)憤激したあまりこのような決定を下したのであるが、そなたらがかようなことをなさるならば、やがて後になってスパルタが、貴国にとってとり返しのつかぬような面倒を貴国に持ち込むかも知れぬことを用心なされるがよい。」
 アイギナ人たちはこの言葉をきいてレオテュキデスを連行することは断念し、話し合いの結果レオテュキデスが彼らとともにアテナイへ赴き、監禁されている者たちをアイギナ側へ返すという協定を結んだ。
 レオテュキデスがアテナイに着いて、預けておいたアイギナ人たちの返還を求めたところ、アテナイ側では返還を望まずさまざまな口実を設けたがその言い分というのは、人質は二人の王から預かったのであるのに、今一人だけに返還するというのは理屈に合わぬ、というのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、85・86 から

結局スパルタ王レオテュキデスは、人質返還の交渉に失敗したままスパルタに引き上げました。この人質たちがアイギナに帰国出来たのがいつなのかヘロドトスは記していません。私は、その後数年で帰国したのではないかと推測しています。アイギナは次の行動をとったからです。

(アイギナ人は)スニオンでアテナイ人が五年目ごとに祝う祭のあった折、待伏せをしてアテナイの一流の知名人を満載した祭礼使(テオーロス)の船を捕獲し、乗船の人々を捕えて投獄したのである。


ヘロドトス著「歴史」巻6、87 から

アイギナはこの捕えた人々と、アテナイに囚われている自国の人々の交換に持ち込んだのではないか、というのが私の推測です。