謎の七支刀

奈良県石上神宮には形の変わった古い刀が伝わっていました。それは長さ2.5メートルほどで、木のように左右に3本ずつ刃が互い違いに出ている刀で、神宮ではこれを神聖なものとして取り扱ってきていました。これがこの本の主題の「七支刀」です。明治維新の復古の精神が世間に漂っていた明治7年、石神神宮へ大宮司として着任した菅政友は、厳重に封印した木箱を開いてこの七支刀を見たときに、全面を覆うさびの下に銘文のあることを発見しました。彼は、大宮司として神社の神宝の神秘性を守り抜くという思いと、秘められた古代の真実を明らかにすべきだという思いの葛藤を感じながら・・・・

おおいに迷いに迷ったすえと思われるが、彼はついにこのご神体に手をつけ、おそるおそる鉄錆の上からこすって、金色に光る文字の正体を見届けようとした。その結果、刀身の表側に三十四字、裏側に二十七字の存在を確かめた。

そこに現れたのは日本の国家の成り立ちにも関わる謎めいた記述の断片でした。菅政友は国学の素養があり、彼はその時、いにしえの「すめらみくに」の復活の息吹を感じたのではないかと私は想像します。まるで映画の一場面のようです。
それはともあれ、この時から七支刀の銘文の謎が始まりました。なにしろとても古い刀なので字が欠けていたり不鮮明であったりしていて、この銘文をどう読むべきなのかについて様々な説が提出されています。
 著者の宮崎市定氏は中国史の大御所だそうで、漢文の解釈や当時の中国情勢について詳しく解説されています。著者の意見ではこの刀の製作年代は中国の南朝宋の泰始4年、西暦468年であり、百済の蓋鹵王の皇太子(のちの文周王)が倭の雄略天皇に贈ったものである、とのことです。
 私自身は年代をもっとさかのぼって、複数の研究者が提唱するように西暦369年(晋の太和4年)としたい希望をもっています。もしそうだとすると、百済は371年、高句麗を破って飛躍的な発展をしたが、それは369年、この刀を贈って倭と同盟を結び、倭も兵を出して百済を支援したために高句麗を破ることが出来た、という解釈が成り立ち、それは日本書紀神功皇后の記事とも関連が出来、さらに広開土王碑の辛卯年(391年)の記述に倭が朝鮮半島高句麗と戦闘したという条文にも自然につながるので、ロマンがあって好きなのですが、ここは著者の学識を重くみて、著者の説を傾聴すべきなのでしょう。もとより私のような門外漢にはどの説が正しいのか皆目見当がつきません。しかしこの本に書かれている推理や、それまでの研究史の紹介は、緻密に記述がなされ、とてもおもしろく読めます。
これも私がとても好きな本のひとつです。