渋滞学 数学と応用との架け橋

渋滞学 (新潮選書)

渋滞学 (新潮選書)

10月31日のエントリー「「渋滞学」を読み終わって」では「渋滞学」の記述の中の「研究とは地道な改良の積み重ね」という言葉に共感した、とお話しましたが、もうひとつ共感した部分があります。少し長いですが引用します。

現在、ますます理学部と工学部の乖離が進んでいると私は感じている。100年ぐらい前までは、現在のような専門分化がまだ進んでおらず、理学と工学は融合していたと考えられている。しかし20世紀になって、科学の近代化とともに研究成果も加速度的に蓄積されてきたため、ひとつの分野への追従がやっとで、いまや完全に理学と工学は分離している。数学や基礎物理でも日夜いろいろな論文が世界中で発表されているが、しかしそれらに目を通す工学部の人はほとんどいない。逆もそうだ。もしかしたら、ある数学の論文に書かれてあることが、工学の現場に役立つこともあるかもしれないのだ。しかしそのようなチャンスは現在完全に失われてしまったといっても過言ではない。(中略)
 そこで私は以前より、分野にまたがった人材育成の必要性をいい続けている。現在のカリキュラムでは、理学部数学科の学部程度で習う数学まで理解していて、しかも工学的なセンス、たとえば設計などを身につけたような人物は生まれない。(中略)
・・・そこで工学と理学を両方勉強した、両方の精神がわかる新しい人材が必要なのだ。そして基礎と応用の間に第三の新集団をサンドイッチのようにはさみこむことが今こそ重要なのである。彼らの活躍により、失われつつある理学と工学の絆を再び結びつけ、最新の数理の成果を次々に新しい工学の応用に生かすような最短ルートを作り出せると信じている。
(「第6章 渋滞学のこれから」より)

私にはそこにノーバート・ウィーナーに近いものを感じます。

ある時代におけるすべての分野の学問を自由にマスターできるような人は、ライプニッツ以後、おそらく一人もいないであろう。彼ののちは、科学は、しだいに狭くなってゆく諸分科の専門家たちのものとなっていった。今から1世紀前にはもう、ライプニッツのような人はいなかったけれども、まだガウスやファラデーやダーウィンのような人物がいた。今日では、単に自分は数学者であるとか、物理学者であるとか、生物学者であるとかいえるような学者はほとんどいない。今日の学者は位相数学者であったり、音響物理学者であったり、鞘翅類昆虫学者であったりするのである。この人たちは、その専門分野の難しい述語をたくさん知っており、文献も知りつくし、その専門の枝葉末節にいたるまでよく知っているが、たいていの場合は、ちょっと離れた分野の話になると、それは三部屋先の同僚のやっていることで、そういうことに興味をもつのは、他人の縄張りを不当に荒らすことのように思っているのである。
(「サイバネティックス 第2版 序章」から)

とウィーナーは述べます。そして、科学の未開拓な領域に挑戦するには、そのような態度は阻害要因になることを述べ、そのような専門性を何らかの形で克服することを彼は夢見ます。

もし或る生理学の問題の行きづまりが、本来、数学的なものであるとすれば、数学を知らない生理学者が10人かかったところで、一人がやれるだけのことしかできず、それ以上の進展は望めない。また数学を知らない生理学者が、生理学を知らない数学者と協力したとしても、前者は後者が取り扱えるように問題をいい表わすことができず、後者は前者が理解できるような形で解答を示すことができないであろう。(中略)
数学者が、生理学の実験をやりとげる腕前をもち合わす必要はないが、それを理解し、批判し、かつ示唆し得る能力をもたなければならない。生理学者は数学の定理を証明できなくてもよいが、その生理学上の意義を把握し、数学者に考えてほしい問題を話せるようでなければならない。何年ものあいだ、われわれはこれらの科学の未開拓領域の一つを共同研究する、それぞれ一人前の科学者から成る研究グループを夢見てきた。
(「サイバネティックス 第2版 序章」から)