奔馬(豊饒の海 第二巻)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

春の雪」での松枝清顕の死から18年たった昭和7年、彼の親友、本多繁邦は38歳になり、控訴院判事になっていた。「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」死ぬ前に清顕からそう告げられた彼は、三輪山の滝で、清顕と同じ胸の脇のほうに3つの黒子を持つ飯沼勲に出会う。

 滝の下であのふしぎな発見をしたときから、本多の心は平衡を失って、神社のいろいろなもてなしも上の空でいた。再び、この田の面の夕栄えにかがよう百合のかげから現われた白鉢巻の若者を見て、彼の放心は絶頂に達した。失踪する自動車の砂塵の中に取り残された若者は、顔つきも肌の色もまるでちがっているのに、その存在の形そのものが正しく清顕その人だった。


奔馬」より

彼は神風連に心酔し、昭和の神風連として同志とともにテロを計画するが・・・・


作者が神風連とか右翼テロだとかに理解を持っているように読めるのが怖いです。しかも、それらの荒唐無稽さも充分に分かっているようなのが余計こわいです。最終的に勲は財界の巨頭、蔵原武介の暗殺に成功しますが、その時の蔵原の「なぜ殺されるか理解出来ない」という様子も描写されています。

「何者だ。何をしに来た」
としわ嗄れた無力な声が言った。
伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」
と勲は言った。その声の高からぬ低からぬ朗らかな調子に、勲は自分が落着いているという自信を持った。
「何?」
蔵原の顔には全く正直に、理解しかねる表情が泛んだ。一瞬の裡に記憶を手さぐりして、何一つ思い当らぬという心持がありありとわかった。それと同時に、忌わしい隔絶した恐怖が、はっきり狂人を見る目で勲を見ている心を語っていた。


奔馬」より

「日本の伝統」という言葉で勲の心情を浅薄に理解をすることは可能でしょうが、私には勲が何やらイスラム原理主義のテロリストに見えてしまいます。最後に勲は切腹します。このあたりは三島事件につながりそうです。それでも不思議なのは三島はあと第三巻、第四巻を書いているのに、この第二巻「奔馬」をなぞったような死に方をしたことです。第三巻、第四巻は第二巻とはトーンがまったく違います。もし、豊饒の海四部作の展開のこの順序に必然性があるならば(そして私はその必然性があると思っていますが)、なぜ三島は第二巻の状態まで戻って切腹したのか不思議です。