流転の王妃の昭和史

流転の王妃の昭和史 (新朝文庫)

流転の王妃の昭和史 (新朝文庫)

著者の愛新覚羅(あいしんかくら)浩(ひろ)さんは軍部の仕組んだ(私個人としては軍部だけに責任を負わせるのは疑問だが、ここでは著者の記述に従う)政略結婚で満州国皇帝愛新覚羅溥儀(ふぎ)の弟である溥傑(ふけつ)と夫婦になりました。

溥儀皇帝には婉容皇后のほか他他拉貴人などの側室がおられましたが、世継ぎとなるお子さまが生まれませんでした。そこで、関東軍は溥儀皇帝の一歳違いの弟溥傑氏に目をつけ、日本から皇族の皇女を嫁がせて日満一体のシンボルにしようと考えました。

ところが、皇女を娶せようとする関東軍のもくろみは、日本の皇室典範の上では不可能とわかり、お妃候補を公卿華族の娘から選ぶことにしたのです。


それでは著者の家柄が皇族に近い尊貴性を持つかどうかが問題になりますが、その点に関しては

 私の生家である嵯峨家は明治の頃までは正親町三條を名乗り、公卿のなかでは、五摂家、九清華に次ぐ名門といわれていました。父方の祖母南加(なか)が明治天皇のご生母である中山一位局の姪という皇室に近い家柄であることから、このお話は起ったにちがいありません。

と著者は書いています。


1945年、日本が敗戦し、そして満州国が滅亡し、政略の意味がまったくなくなってからも二人は夫婦であり続けました。夫、溥傑氏はソ連軍に捕らえられ、著者は、国民党、八路軍、旧日本軍の残党、暴民などが入り乱れる敗戦後の中国東北地方の混乱の中を幼い娘を連れてくぐりぬけます。そして、なんとか日本に帰り着くまでがこの本のひとつの山場です。例えば通化八路軍に捕らえられていた時には通化事件に遭遇しています。

・・・乱暴な足音とともに一人の男が私たちの部屋に飛び込んできました。
「シェイ?(だれです)」
と、中国語で訊いてみましたが、返事はありません。もう一度繰り返すと、男は「コーミンダン(国民党)」と答えるなり、日本語で、
ローソクをつけろ!」
と怒鳴りました。発音から日本人とわかりましたので、私は急いで告げました。
「ここは皇后さま(CUSCUS注:溥儀の妃、婉容のこと)のいらっしゃる所です。」
すると、男は、
「一番乗りの中山、お助けに上がりました!」
と叫び、階下に駆け出していきました。
 階下では凄まじい銃声が起りました。

この時の日本軍の残党は、八路軍によって殺されるか捕らえられてしまいます。その後、著者は八路軍から釈放されますが

うれしいことはうれしいのですが、まだ実感が湧きません。だいいち佳木斯で釈放されても知人もいません。

それからハルピンへ行き、引き上げ日本人に混じって日本を目指します。しかし今度は国民党に捕らえられて北京に連行されます。

なんという運命のいたずらでしょう。北京まで逃げてくる予定であった私は、いま捕らわれの身となって、こうして醇親王府(CUSCUS注:溥儀・溥傑の父、醇親王載澧の住まい)を訪問しようとしているのです。

その後も紆余曲折があってやっと日本に戻ることが出来ました。もう一つの山場は16年後に周恩来のはからいでやっと夫と再会がかなうところです。
歴史の評価・解釈は立場と経験によっていろいろあるでしょうが、著者の記述にもひとつのリアリティを感じました。