アイヌ神謡集

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

アイヌ神謡集 (岩波文庫)

この本を読んだ時にその倫理性の高さに感銘を受けました。それを紹介するために、この本に最初に登場する「梟の神が自ら歌った謡『銀の滴降る降るまわりに』」を全部引用したいところですが、著作権の問題が起きそうですので、あらすじを紹介することにします。
まず物語は梟の神様が『銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに』と歌いながら人間の村の上にやってくるところから始まります。この本はすべて日本語とアイヌ語(ローマ字表記)の対記になっていて、『銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに』というのは原語では「Shirokanipe ranran pishkan, konkanipe ranran pishkan」(シロカニペ・ランラン・ピシカン・コンカニペ・ランラン・ピシカン)となっています。
さて梟の神様が下を眺めると、金持ちの子供たちが金の矢で梟を射掛けようとしています。でも、皆、失敗してしまいます。その中に一人の貧乏人の子供がいて、ただの木製の弓と矢でこの梟をしとめようとしています。
ところで、アイヌの考えでは動物は皆、神です。実際には人間が狩猟してその動物を得ているのですが、それを神様が自らの意思で矢を受け取って、贈り物としてその肉体を人間に与えてくれるのだと考えます。動物の肉体は鎧のようなもので、実体である神はその「耳と耳の間」にいると考えていたらしいです。だから、動物を狩でしとめるにも礼儀をもってしとめなければならないし、そして贈り物をもらったのだから、感謝して神様を丁寧に神の世界に送り返さなければならない、という考えがあります。
さて、この時金持ちの子供たちが貧乏人の子供をあざけって次のように言うのですが、その背後には、今、述べたような考え方があります。

「あらおかしや貧乏の子
あの鳥、神様の鳥は私たちの
金の小矢でもお取りにならないものを、お前の様な
貧乏な子のただの矢腐れ木の矢を
あの鳥、神様の鳥がよくよく
取るだろうよ。」

しかしこの梟の神様はこの子の矢を取って、くるくると落下します。(つまりはこの子に射落とされたのですが、それを梟の神様の意思のように言います。)そしてこの子は金持ちの子供たちに取られないように急いでこの梟を家に持って帰ります。家にいたこの子の年老いた両親は、この梟の神様を歓迎します。

老人はキチンと帯をしめ直して、
私を拝し
「ふくろうの神様、大神様、
貧しい私たちの粗末な家へ
お出で下さいました事、有難う御座います。
昔は、お金持に自分を数え入れるほどの者で
御座いましたが今はもうこの様に
つまらない貧乏人になりまして、国の神様
大神様をお泊め申すも
畏れ多い事ながら今日はもう
日も暮れましたから、今宵は大神様を、
お泊め申し上げ、明日は、ただイナウだけでも
大神様をお送り申し上げましょう」

この家の者たちが寝静まっている間に梟の神様は、不思議な力で、この家をりっぱな家に作り変え、中にはいっぱい宝物を満たします。こうしてこの家は金持ちの家になるのですが、神様の恵みをうけた彼らが、そこで、今まで彼らをバカにしていた村の人々を懲らしめる・・・・というふうには話は進みません。進まないところがいいところです。
彼らは2日かけて酒樽に酒を造り宴会の準備をします。そして村の人々を招待します。村の人々はバカにし合って出かけるのですが

ずーっと遠くから、ただ家を見ただけで
驚いてはずかしがり、そのまま帰るものもあります、
家の前まで来て腰を抜かしているのもあります。

村人も根っからの悪人たちではないのです。彼らをバカにしたことに対して今は羞恥の思いを持っているようです。家の夫人が皆を家の中に招き入れます。村人の様子はといえば

みんないざり這いよって
顔を上げる者もありません

そこで家の主人が言う言葉がなかなかよいのです。

すると、家の主人は起き上って
カッコウ鳥の様な美しい声で物を言いました。
斯々(かくかく)の訳を物語り
「この様に、貧乏人でへだてなく
互いに往来も出来なかったのだが
大神様があわれんで下され、何の悪い考えも
私どもは持っていませんでしたのでこの様に
お恵みをいただきましたのですから
今から村中、私共は一族の者
なんですから、仲善くして
互に往来をしたいという事を皆様に
望む次第であります。」

うらみごとのひとつも述べません。ただ、仲良くして欲しいとだけ言います。物語は、皆が和解して、酒宴をおもしろく執り行い、人々の心がなごんだこと、そして何年ものちになって、あの子供が成人し、村の長になったことを述べます。
物語の最後は次のようになっています。

私も人間たちの後に坐して
何時でも
人間の国を守護っています
と、ふくろうの神様が物語りました。