幕末の天皇

幕末の天皇 (講談社選書メチエ)

幕末の天皇 (講談社選書メチエ)

幕末の天皇と言えば孝明天皇ですが、この本では孝明天皇とその2代前の光格天皇を取り上げています。間の仁孝天皇は飛ばしています。この本を読むまで知らなかったのですが、光格天皇というのは、江戸時代における天皇家の地位向上に努力した天皇であり、何よりも「天皇」号を復活させた天皇なのだそうです。これも知らなかったことなのですが、実は第62代村上天皇よりあとは第63代冷泉院から「天皇」とは呼ばれずに「院」と呼ばれていたそうです。これが第119代光格天皇から再び「天皇」号に戻った、ということです。この種の意外な話がこの本には多く出てきます。逆に言えば、今、私たちが認識している日本の歴史がどれだけ明治政府のフィルターを通して出来たものであったかを自覚させてくれます。
たとえば、江戸時代では宮家よりも五摂家のほうが格が上だったとか、摂政関白が実は天皇より幕府よりだったとか、江戸時代中頃には天皇日本書紀を勉強しただけで幕府に問題視されたとか(これは宝暦事件のことです。1757年、桃園天皇が「日本書紀」の講義を受けていたのを時の関白が幕府に告発し、幕府が講義をした者を処罰した、ということです。)です。
最後の、天皇日本書紀を勉強してはいけない、とは、意表をつかれます。


さて、この本の著者のねらいを述べたと思われるところを前書きの中から引用します。

「掌中の玉」として、天皇・朝廷を自己の主張や行動の正当性の獲得に利用するといっても、それにふさわしい権威を天皇・朝廷が身に着けていなければ利用しようがない。それでは、天皇・朝廷は、幕府からも反幕府勢力側からも依存されうる高度な政治的権威を、いついかにして身に着けていったのであろうか。そこのところを考えてみようというのが、本書の主要なテーマである。
 そこで注目されるのが、十八世紀末に登場した光格天皇である。光格天皇は、さまざまな朝儀、神事の再興・復古をとおして朝権(朝廷の権威・権力)回復と神聖(性)強化に尽力し、神武天皇以来の皇統という意識、日本国の君主であるという意識を強くもった天皇であった。・・・・・
 その皇統意識・君主意識は、孫の孝明天皇に引きつがれ、それを精神的バックボーンとして、開国・開港という未曾有の危機にあたり、頑固なまでに外国との通商条約に反対して鎖国攘夷を主張した。・・・・・


この本はいろいろなことを考えさせます。例えば、孝明天皇が頑なに攘夷を主張し、幕府側がそれを一生懸命なだめようとしていますが、そのやりとりを見ていると幕府側の方がよっぽど理性的です。ところが歴史は理性的な方には味方しなかったのを知ると何だか可愛そうに思えます。それに私には明治維新というのがどうしても理解出来ないのです。攘夷攘夷と言っていた者達が、開国をした幕府を倒しながら、もっと開国をし、復古復古と言っていた者達が近代国家を建設しようとし、西洋文明の取り入れにやっきになる、その過程がどうしても飲み込めません。