ナジャ論

昨夜帰宅すると、その日にあったささいなことを理由にしてビールを飲んだ。飲みながら、ふと目についた本箱の最下段にあった巌谷國士氏の「ナジャ論」

ナジャ論 (1977年)

ナジャ論 (1977年)

を何年かぶりに手にした。もう、自分の心の構えがこの本の雰囲気から離れて随分月日がたっていたが、冒頭の文を読んで、ああ、これを「札幌7月30日の集まり」に捧げるとピッタリするな、と思った。もとより酔っているので、どの部分がピッタリすると感じたのかうまく説明出来ない。とにかく引用する。

はじめに


『ナジャ』という書物が、今日アンドレ・ブルトンの全著作----いやシュルレアリスムのあらゆる作品のなかでも、何か特別な、特権的な位置を占めていることはたしかだろう。もちろん、これがもっとも完成された作品であるとか、もっとも感動的な主張をもつ作品であるとか、あるいはまた、もっともシュルレアリスムに忠実な作品であるとか言っているわけではない。それどころか、ある意味ではこれほど未完成な作品もないだろうし、これほど矛盾にみち、当初の企図を裏切っているように思える作品も珍しいはずである。しかし、にもかかわらず私たちは、ここに他のあらゆる作品と決定的に異なった何かを感じつつ、この書物を愛してしまうのだ。とすれば、その魅力のもとはいったいどこにあるのか--それを(多少とも)解き明かすのがこの小論全体の目標である以上、ここではまず、あらかじめ、私たちがこのテクストを生きることができるからだ、とでも要約しておくほかはないだろう。このテクストにはたしかに、扉のように開け放れたブルトン自身の人生がある。その人生、私的であると同時にある普遍的なものにも通じている人生は暗号文のように読み解かれることを求めており、しかも、その読み解く役割を与えられているのは、作者自身ばかりではない、私たちすべてなのだ。・・・・


巌谷國士著「ナジャ論」より

「私的であると同時にある普遍的なものにも通じている人生」というところに私が反応していることは分かる。でもそれだけではなさそうだ。
(アップしたことをあとで後悔しそうな今日の文章です。)