さあ困った。今日は宮沢賢治だ。しかもこの本は昭和47年(1972年)のものだ。中学1年生の時だ。
- 作者: 宮沢賢治
- 出版社/メーカー: 旺文社
- 発売日: 1981/01
- メディア: 文庫
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「銀河鉄道の夜」は好きだ。「グスコーブドリの伝記」も「水仙月の四日」も「なめとこ山の熊」も。
「カイロ団長」も今読めば、こんな箇所に身におぼえを感じて苦笑します。
「ほんとうにねい。おいら、お酒をなぜあんなにのんだろうなあ。」
「おいらもそいつを考えているんだよ。どうも一ぱい目と二杯目、二杯目と三杯目、みんな順ぐりに糸か何かついていたよ。三百五十杯つながっていたとおいら今考えてるんだ。」
カイロ団長
子供の頃は全然分からなかった。「一ぱい目と二杯目、二杯目と三杯目、みんな順ぐりに糸か何かついてい」るんだねえ。
さて、酒飲み話は脇に置いといて・・・・・
この本をずっと持っていたのは、やっぱり捨てるに忍びなかったからです。では、大人になってからも読んでいたかというとそれほど読んでいません。そのわけは今になってみれば分かります。端的に言えば、読むのが恐かったのです。このキラキラしたものから自分がどれだけ遠ざかっているかを自覚するのが恐かったのです。そしてまた、このキラキラに係わっていては日々の生活が覚束なくなる、との感じていたのです。
しかし歳月を経てから読むのもまたよいものです。昔読んでいて分かっていなかったことが分かりますし、今になって、ここが分からない(若い頃はそこが分からない、ということが分からなかった)と気づいたりします。今回「銀河鉄道の夜」を読んでここが分かりませんでした。
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなといっしょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
銀河鉄道の夜(太字にしたのは私)
「おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ。」という言葉の背景には法華経の世界観があるのでしょう。何か重要なことを賢治は伝えようとしていて、でも自分には届かない。そのもどかしさを感じます。