日本書紀(三)

この巻は、雄略天皇から欽明天皇までを扱います。このあたりになるとようやく日本書紀の記す年代の信頼性が増します。この巻が扱っているのは紀元460年ぐらいから571年までです。
ここで私が注目しているのは、雄略天皇継体天皇欽明天皇の記述です。特に、継体紀と欽明紀は大部分が日韓関係の記述になっています。これを正しくどう解釈するかが、なかなかの問題のように私は思っています。たぶん解釈が一定しないことと、両国ナショナリズムへの配慮の両方から、あまりこのあたりの記述は取り上げられていないような気がします。たとえば、こんな記述があります。

そこでアリシト(任那の王)は毛野臣が小さなくだらないことばかりをして約束を果たさないこと知ってしきりに帰国を勧めたが、毛野臣は帰ることを承知しない。アリシトは毛野臣の行状がわかってしまったので、背く気持ちが出て来た。そこでクレシコモを新羅に送って出兵をお願いし、ヌスクリを百済に送って出兵をお願いした。毛野臣は百済の兵が来ると聞いて、ヘゴホリで迎え撃った。死傷者は半分に達した。百済はヌスクリを捕えて手かせ足かせ首かせをして、新羅と共に城を囲んだ。アリシトを責めて罵って「毛野臣を出せ」という。毛野臣は城に入って防備を固めた。その勢いが強くて捕まえることが出来なかった。そこでこの二国の兵は、便利な場所を見つけてひと月の間、留まった。そして城を築いて帰国した。クレムラノサシという。帰国する際に道筋にあるトリキムラ、フナムラ、ムリキムラ、アブラ、クチハタキの5つの城を落とした。


継体天皇24年条」から

何だかよく分かりませんが、何かゴタゴタがあったことは分かります。このような謎めいた記述が継体紀と欽明紀には多数あるのですが、それらを誰かがスパッと解釈して教えてくれないか、と思います。
その中で比較的納得のいった本は、次の本です。


さて、日本書紀はこの(三)まで買ったのち(四)(五)は買いませんでした。それは、別に下の本を買ってしまったからです。