- 作者: 上坂冬子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2001/04
- メディア: 単行本
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台湾の民主化を動乱なしに成し遂げた優れた政治家、台湾の元総統、李登輝とその夫人の半生を柱にして台湾の戦後史を描いたものです。台湾の戦後史を理解するには、 二二八事件を避けては通れません。
現在、事件発祥の地、大稲葳は繁華街となっているが、その一角の日本料理店の斜め前に事件を解説した御影石の記念碑があり、次のように刻んである。
二二八事件発祥の地
1945年に日本が降伏して、陳儀が台湾省の行政長官となった。陳は強引な性格で、その政策には問題があった。彼は政治的に台湾人を抑圧したばかりでなく、経済的な統制もきびしく行った。たとえば日本統治時代からの大企業を公営化し、専売制度を拡充したが、その結果、多くの業者は経営不振におちいり人々の生活は困窮している。公営企業の経営は劣悪で、とくに専売局のタバコは粗悪なうえに高価であったため、外国製タバコの密売も横行した。深刻な失業により、タバコを売って糊口をしのいでいた人々のなかには、専売法に抵触して取締りを受ける者が多くなっていった。無能な取締官は食塩の密売には目をつぶったにもかかわらず、タバコについてはきびしく取り締まったため、たびたび衝突が起っている。
1947年2月27日夕刻、専売局の取締官が円環の天馬茶房のあたりを包囲し、タバコの密売商を逮捕した。女密売商の林江邁は公認、非公認のタバコのすべてと現金を没収されたうえ、取締官の発砲により負傷した。群集はこれに抗議して取締官を取り囲んだため、彼はあわてて市民の陳文渓を誤射している。激怒した群集は取締官を捕らえ、派出所を包囲した。
翌日、民衆はこの凶行に対して抗議行動を起こしたが、長官府護衛官の発砲により死傷者数名を出した。
これをきっかけとして、ついに台湾全土におよぶ抗議運動に火がついたのである。国民政府首席の蒋中正(筆者注・蒋介石)は真相を調査せず、軍隊を派遣して鎮圧にあたった結果、罪もない多くの人々が殺害、監禁され、遂には省籍対立(筆者注・台湾人と外省人の対立)の禍根を残すことになったのである。
歴史上、これを二二八事件という。
元をただせばこの悲劇の原因は失政にあり、タバコの取り締まりを導火線として民衆は抗議の声をあげたのであった。
ここに石碑を建てて犠牲者の霊を弔い、事件を世に伝える。
台北文献委員会 建立
一九九八年二月二八日
「虎口の総統 李登輝とその妻」より
このような出発点から今のような民主的な台湾への政治社会の変革の要に位置したのが李登輝氏の活動です。この本の文庫版には李登輝その人が序文を寄せています。ということは、内容がいい加減なものではないということだと思います。
いろいろ引用したい箇所は多いのですが、あとひとつだけ引用します。台湾史上初の、選挙による政権交代で次期総統に決まった陳水篇とその夫人が李登輝夫妻の住んでいた総統官邸を訪れた時のエピソードです。
普段は自宅に政治家を迎えた場合、せいぜい挨拶するぐらいで引き下がってくる曾夫人*1だが、この日はとくに体の不自由な呉夫人*2を思いやって最後まで同席している。帰りがけ、曾夫人は新総統陳水扁の若さに目を見張りながら、さりげなく年齢を尋ねたという。一般に台湾では、よほど親密にならぬかぎり相手に生年月日を聞く習慣がない。運命鑑定の貴重な材料だからだ。夫人の問いかけに彼は持ち前の笑顔をみせて、無邪気に「そろそろ50になります」と答えた。それを聞いた曾夫人は動揺をかくせない。
「我を忘れて『あら、うちの息子と同じくらいでいらっしゃるのね』と口走ってしまったのです。それまで笑顔で私と軽く別れの握手を交わしていた陳総統は、その瞬間、真顔になって痛いほどぎゅっと力をこめて私の手を握りしめられたのを感じました。感きわまった私も思わずぎゅっと握り返しました」
心なしか、これを語りながら夫人の目がうるんだ。実は、李家の一人息子の李憲文は32歳のとき、妻と生後七ヶ月の娘を残して癌で他界している。・・・・
18年前のこととはいえ、当然、陳水扁総統も承知していたはずである。曾夫人としては、もし息子が生きていれば----と新総統を見上げたであろう。それを察して新総統が反射的に力をこめた思いは、無言のうちに夫人に伝わったにちがいない。
「虎口の総統 李登輝とその妻」より
台湾の現代史に関心のある人にはぜひお勧めしたい本です。