いまだ輝かざる暁の数は、げに多かり

これはインドの古代の讃歌集リグ・ヴェーダにある言葉です。
意味は、まだ輝いていない暁が数多くあるのだ、といことで、未来への希望を感じさせる言葉です。この言葉をニーチェが取り出して、自分の『曙光』という本の最初に引用しているので有名になりました。私は『曙光』を読んでいませんが、同じニーチェの『この人を見よ』

を読んだ時にそれを知りました。その時に出会った訳では

  • いまだ輝かざる、あまたの曙光あり

だったと記憶しています。「いまだ輝かざる暁の数は、げに多かり」は、辻直四郎訳の岩波文庫リグ・ヴェーダ讃歌』

での訳

  • いまだ輝かざる暁紅の数は、実(げ)に多かり

を自分の好みで少し直したものです。


この言葉はここだけ取り出してみると名句ですが、その前後の章句を見ると現世的な祈りの言葉ばかりでがっくりします。見ないほうがいいでしょう。これを取り出したニーチェの慧眼がこれを名句たらしめているのですね。


ところで、ニーチェならぬ私が好きだと思ったリグ・ヴェーダの詩句は、以下のようなものです。


暁の女神ウシャスへの祈願の歌

よきものを伴いて、われらがために、ウシャス*1よ、輝き渡れ、天の娘よ、高き光彩を伴いて、輝く女神よ、富を伴いて、女神よ、賜物に満ちみちて。
(1.48.1)


インドラ神*2への祈願の歌の中にある天則(リタ)の賛美

実(げ)に天則のもたらす報酬は多し。天則の洞察は邪曲を滅ぼす。天則の呼声は、聾(し)いたる耳をもつんざけり、アーユ*3のもとに目覚め、輝きつつ。
(4.23.8)


鶉に変身してソーマ*4に酔ったインドラ神の酔言

実(げ)に天地両界は、わが一翼にも匹敵せず。----真実、われはソーマを飲めり
(10.119.8)

酔っ払って自分の片方の翼が天地よりもデカい、と、のたまう帝釈天ですね。


宇宙開闢の歌の最後の節。

この創造はいずこより起こりしや。そは誰によりて実行せられたりや、あるいはまたしからざりしや、----最高天にありてこの世界を監視する者のみ実にこれを知る。あるいは彼もまた知らず。
(10.129.7)

不可知論的な終り方が誠実さと、それから、めまいを、感じさせます。

*1:暁の女神

*2:仏教でいうところの帝釈天

*3:人間の祖先

*4:神々の酒